中国大返し

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中国大返し(ちゅうごくおおがえし)は1582年(天正10年)6月2日未明、明智光秀織田信長を暗殺した後、備中高松城(現岡山市北区)に出陣中の羽柴秀吉が退陣中の毛利氏と和睦し、山城山崎(現京都府乙訓郡大山崎町)まで10日間で約2万人の兵士を引き連れ、約235kmを移動させた出来事を言う。

行軍の兵士数[編集]

中国大返しに従軍した兵士数には3万人説もある[1]。しかし、山崎の戦いの秀吉側の兵力26,000名から,高山右近、細川幽斎らの摂津勢を差し引くと、中国大返しでは2万人がいたと考えるのが妥当であろう。

大返しの経過[編集]

1582年(天正10年)の出来事である。

  • 6月2日、本能寺の変で織田信長が家臣の明智光秀に討たれる。
  • 6月3日の夜から4日未明、秀吉は織田信長が亡くなったという知らせを知る。毛利方の安国寺恵瓊を自陣に招いて停戦交渉を始める。
  • 6月4日、信長の死を秘して毛利輝元と和議。高松城に妻北政所の叔父にあたる腹心の杉原家次を置くことにした。
  • 6月6日、一説に備中高松城を6日に出立したと言われるが、6月5日出発説もあり、正確な出発日は諸説あり確定していない。高松城から沼城に入る。高松城-沼城間22km。
  • 6月8日、6月6日から8日の間に播磨姫路城に帰還した。沼城-姫路城間70 km。
  • 6月9日、姫路城から明石に移動。姫路城-明石間35 km。
  • 6月10日、明石を出発し、兵庫に到着。明石兵庫-尼崎間26 km。-兵庫間18 km。
  • 6月11日、尼崎に到着。(『広田文書』『金井文書』によれば、6月11日の朝に尼崎に到着した)
  • 6月12日、西国街道から富田(大阪府高槻市)に到着し着陣した。尼崎-富田間23 km。
  • 6月13日、山崎に到着。富田-山崎間6 km。光秀軍と山崎で決戦となり(山崎の戦い)勝利する。

参考文献・注釈[編集]

  1. 秀吉軍の数について秀吉自身が「二・三万にて取巻候」と語る、浅野家文書(天正10年)(1582年)10月18日・豊臣秀吉披露状写