山崎の戦い
山崎の戦い | |
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戦争: 山崎の戦い | |
年月日: 1582年7月2日夕刻 | |
場所: 摂津国山崎 | |
結果: 羽柴秀吉軍の勝利、明智光秀の討ち死に | |
交戦勢力 | |
羽柴軍 | 明智軍 |
指揮官 | |
羽柴秀吉 羽柴秀長 池田恒興 丹羽長秀 織田信孝 |
明智光秀 斎藤利三 |
戦力 | |
30,000余 | 10,000余 |
損害 | |
??? | ??? |
山崎の戦い(やまざきのたたかい)とは、羽柴秀吉が本能寺の変を受け備中高松城からおよそ230km以上を10日で引き返し、京にいた明智光秀との両軍が山崎にて衝突した合戦である。
概要[編集]
高松城落城[編集]
1575年、毛利氏が清水宗治を備中高松城に置き、1582年5月に織田信長のもと秀吉軍は中国攻めへと向かった。毛利軍は猛攻戦し、秀吉軍は手段の一つとして水攻めを活用した。水攻めの脅威に驚いた毛利勢は、もはや戦で家臣が死に、落城するよりもよりも講和で落城させる方が毛利勢にとっては幸の手段であった。しかしその時、秀吉に最大の転機が訪れる。信長が明智光秀に討たれた、本能寺の変である。秀吉は毛利勢に向かう怪しい使者を捕らえ、そこで本能寺の変を知った。秀吉にとっても、毛利勢にとっても、講和での落城は重要であった。安国寺恵瓊が交渉役を務め、結果的には宗治とその家臣3人の自害という条件で落城を許され、宗治以外の毛利勢は一命を取り留めた。
三日天下と中国大返し[編集]
その頃京にいた光秀は、織田勢の各武将に光秀の味方になる様書状を送った。細川忠興・細川幽斎はこの書状をことごとく拒否、光秀には味方にならない事を表した。さらに筒井順慶、高山右近や蒲生賢秀などもこの書状を拒否した。そして光秀は正親町天皇に銀を与えようとするも、援軍は与えられないという超絶望的状態まで陥った。その頃秀吉は姫路城を民に明け渡し、中国地方を実に10日で横断した。この大返しには黒田孝高、羽柴秀長らの有力武将も参加していた。その後秀吉は、摂津国富田に本陣を置いて挙兵した。
合戦[編集]
山崎の戦いでは、まず最初に淀城での籠城戦に誘き寄せ、勝竜寺城本陣から光秀軍が出発した。富田からの秀吉陣は計画により羽柴秀長が淀川付近にある天王山を占拠した。さらにその後、織田信孝が戦線に登場した事で戦況は動いた。山、川を囲まれた光秀には行き場所はなく、鉄砲隊で秀吉軍を迎え撃った。この鉄砲隊は大きな役割を果たしたが、30000余の秀吉軍に勝てるわけも無く、光秀軍は惨敗した。光秀はその後、戦同日夜中に秀吉側の農民に討たれ、亡くなった。享年56。さらにこの直後、千利休が待庵の原型となる建物を茶会を開く為に建立したとされる。