1600年
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1600年(せんろっぴゃくねん)は、1600年ちょうどのことであり、日本の元号では慶長5年である。朝廷の天皇は後陽成天皇である。関ヶ原の戦いが発生した年として著名な年である。16世紀最後の年である。
日本の出来事[編集]
- 1月 - 細川忠興の息子の光千代(後の細川忠利)が江戸に人質として送られる。続いて前田利長の生母である芳春院も人質として江戸に送られる。
- 2月 - 徳川家康が貞観政要を刊行する。
- 3月 - オランダ船のリーフデ号が豊後国に漂着する。上杉景勝と石田三成が密約を結ぶ。
- 5月 - 徳川家康が諸大名に会津征伐のための出兵を命じる。
- 6月 - 徳川家康が会津に向けて伏見城から出陣する。
- 7月 - 徳川家康が江戸城に入城する。石田三成が挙兵し、徳川家康の罪科13条を挙げて弾劾する。続いて石田三成は家康に従う東軍諸大名の人質を奪おうとするが、細川ガラシャに自殺されて失敗する(39歳)。小野木重次らが東軍の細川幽斎が守る丹後国田辺城を包囲し、さらに鳥居元忠が守る伏見城を攻める(田辺城の戦い、伏見城の戦い)。徳川家康が鳥居元忠の急報により石田三成らの挙兵を知り、小山会議を開いて下野国小山から西上を開始する。
- 8月 - 伏見城が落城し、鳥居元忠(62歳)、内藤家長(46歳)、松平家忠らが討ち死にする。東軍の福島正則らにより織田秀信が守る美濃国岐阜城が落城する(岐阜城の戦い)。
- 9月 - 美濃関ヶ原において東軍・西軍による本戦が行なわれ、東軍が勝利する。毛利輝元が大坂城を退去する。長束正家が東軍に攻められて自殺する。
- 10月 - 徳川家康が関ヶ原合戦における賞罰を行なう。石田三成は捕縛され、同じく捕縛された小西行長や安国寺恵瓊と共に処刑される(41歳・46歳・63歳)。
- 月不明 - 狩野光信が園城寺勧学院襖絵を描く。
世界の出来事[編集]
- 不詳 - イギリス東インド会社が設立される。