岐阜城
岐阜城(ぎふじょう)とは、現在の岐阜県岐阜市金華山山頂にあった城である。現在の天守閣は太平洋戦争後に再建されたものである。斎藤道三や織田信長・信忠父子が居城にしたことで有名な城である。元の名は稲葉山城(いなばやまじょう)であったが、織田信長により岐阜城と改められた。
概要[編集]
創始[編集]
この地に初めて築城したのは鎌倉幕府の執事を務めた二階堂行政で、時代は第2代将軍・源頼家の時代である建仁元年(1201年)であった。室町時代になると美濃は土岐氏の守護国となったが、この際にこの城は土岐氏の家臣・美濃斎藤氏の居城となった。
戦国時代[編集]
戦国時代になると土岐氏は一族や家臣の内訌で急速に衰退し、この機に乗じて現れたのが梟雄・斎藤道三であり、道三は天文8年(1539年)に当城を居城にすると、城の修築や天守閣や城下町の造営に尽力したという。道三は長良川の戦いで嫡子の義龍と戦って敗死。その義龍はなかなかの人物だったがわずか5年後に若死にしてしまう。次に城主になったのは義龍の子・竜興であるが、彼は道三や義龍と比較すると欠ける人物で、永禄10年(1567年)に織田信長の美濃侵攻で遂に稲葉山城を落とされて美濃から逃亡した。こうして戦国大名としての美濃斎藤氏は滅亡し、信長が新たな城主となって、信長は城を岐阜城と改めた。
信長は天正4年(1576年)に近江安土城に移るまで岐阜城を居城としたため、この城は事実上天下人の城として君臨し、城下町は大いに繁栄した。ルイス・フロイスによると当時の岐阜の繁栄はバビロンに匹敵すると評している。その後、信長が安土城に移ると岐阜城主には信長の嫡子・信忠が就任する。しかし天正10年(1582年)6月2日の本能寺の変で信長・信忠父子は横死を遂げ、岐阜城主には新たに信長の3男・信孝が就任するも、信孝は賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉・織田信雄に討たれて滅亡し、ここに岐阜城は織田氏の支配下からいったん離れることになる。
その後、城主は何度も変わるが、最終的に岐阜城主となったのは信長の嫡孫で信忠の嫡子であった秀信であった。しかし秀信も慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで福島正則・池田輝政らに攻められて落城し、秀信は助命されたものの戦後は改易されて没落した。
廃城とその後[編集]
関ヶ原の後、江戸幕府を開いた徳川家康は美濃に娘婿の奥平信昌を入れたが、岐阜城が堅城である点や山城が時代遅れである点などが考慮されて岐阜城は廃城とされ、新たに現在の岐阜市加納に加納城を築城するように命じた。この際、岐阜城の天守閣は全て加納城に移されることになった。
現在の金華山にある岐阜城天守閣は昭和31年(1956年)7月に再建されたもので、鉄筋コンクリート造りによる三重四層で高さは17.7メートル。内部は郷土博物館となり、最上層は展望台となっている。昭和50年(1975年)4月に完成した岐阜城資料館があり、昔の武器庫や糧食庫を隅櫓城郭造に復元したもので、内部には道三や信長、そして信長を討った明智光秀など戦国武将をしのぶ所縁の資料が陳列されている。
往時の面影を残すものとして、米蔵跡、太鼓櫓跡、二の丸門跡の石垣などがある。