大坂城

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大坂城(おおさかじょう)とは、かつて日本摂津国に存在した日本である。大坂藩時代は藩庁になった。尚、この記事では明治時代以前までの大阪城を解説する。

概要[編集]

天正11年(1583年9月明智光秀山崎の戦いで破り織田信長の後継者となった羽柴秀吉長浜城を居城としていたが、権力が大きくなるにつれてそれを象徴するための城郭が必要とされた。そこでの建造計画が浮上したのが大坂城である。

造成には秀吉恩顧の大名(池田恒興石田三成加藤清正など)に手伝わせることとした。石垣はの港より1日200艘もの船が運び、大坂城へと運んだ。大坂城の石垣のつくりは、まず土を盛って小さな山を作った後、斜面を少し削って整え、縄や棒を垂らし石垣の曲線を決めて、積むという方式であった。ちなみに同地には石山本願寺の敷地が存在した。以後、数十年に渡り豊臣氏の城となる。

慶長3年(1598年)に秀吉が死去すると、後継者の豊臣秀頼淀殿が大坂城に入城する。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは毛利輝元が西軍総大将として大坂城に入城するが、直ぐに決着がつき石田三成が処刑された為輝元は降伏し大坂城を徳川家康に明け渡した。輝元ら毛利一族は減封され、結局長州藩に所領を移された。

慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では大坂城側が堤防を決壊させて物凄い大きさの湖を人工的に作り水城とするが、徳川軍に堤防を埋められてわずか2週間後にこの幻の湖は抹消された。この他にも真田信繁が「真田丸」を築き籠城して徳川軍を詰まらせるなどの対策を取ったが、結局は和睦を条件とした休戦となった。

だがこの和睦は取り消され、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣で豊臣氏は再び大坂城に籠城する。秀頼とその正室である千姫は危機に晒されたが千姫は救出された。しかし秀頼は救出されず、城内で切腹した。城は徳川軍の策略により全焼した。その光景をみた千姫ら豊臣関係者はどのような心情だったのか。今だに分かっていない。この戦いにより豊臣氏は滅亡した。

その後、家康の外孫の松平忠明藩主として入城したが、元和5年(1619年)に移封されたことにより、幕府直轄領となって大坂城代が置かれ、暫定的な城主となった。寛永6年(1629年)に、二代将軍徳川秀忠の命により城は再建された。しかし不運にも落雷で天守閣は焼失し、数百年にもわたって天守が無い状態となった。

関連項目[編集]