安国寺恵瓊

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安国寺 恵瓊
あんこくじ えけい
性別 男性
時代 戦国時代から安土桃山時代
生年月日 不詳
死没日 慶長5年10月1日1600年11月6日
肩書き 毛利氏家臣。東福寺・住持
国籍 日本国旗.png日本
出身地 安芸国
父:武田信重あるいは伴義清?
補足 外交僧として著名

安国寺 恵瓊(あんこくじ えけい)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての臨済宗で、武将でもあり外交僧でもある。毛利氏に仕えた家臣の1人。関ヶ原の戦いにおいて西軍の首脳の1人となったため、戦後に処刑された。当時の一次史料からは瑶甫 恵瓊(ようほ えけい)と確認される[1]

生涯[編集]

出自と外交僧として[編集]

恵瓊の出自については、鎌倉時代安芸守護を務め、室町時代には同国佐東郡の分郡守護を務めた安芸武田氏の一族といわれている。恵瓊の生年は不詳だが、安芸武田氏は天文10年(1541年)に大内義隆毛利元就らの攻撃を受けて滅亡しているので、少なくともこの時点までには生まれていたと推定される。恵瓊はこの滅亡の際に脱出して落ち延びたと言われるが、武田家旧臣は大内氏毛利氏に仕えた者も多く、恵瓊が本当に安芸武田家の出自なのかは不詳である[1]

恵瓊は少年期を落ち延びた東福寺の末寺にあたる安芸安国寺住持竺雲恵心弟子になって過ごした。永禄12年(1569年)には安国寺の住持になっている。この際に字は瑶甫、あるいは一任と号している。僧侶としては慶長3年(1598年)に東福寺の住持に就任し、処刑される慶長5年(1600年)には南禅寺住持の公帖(住持を任命することができる地位)を受けている[1]

毛利元就の死後に跡を継いだ孫の輝元には仕えており、天正年間初期には織田信長が追放した室町幕府将軍足利義昭の処遇をめぐり、織田方の取次であった羽柴秀吉と交渉をしている。この際に有名な予言をしているが、天正元年(1573年)12月12日付児玉三右衛門・山県越前守・井上春忠宛書状で、「信長之代、五年、三年は持たるべく候。明年辺は公家などに成さるべく候かと見及び申候。左候て後、高ころびに、あおのけに転ばれ候ずると見え申候。藤吉郎さりとてはの者にて候」と書いており、織田信長の転落とその家臣の羽柴秀吉の躍進を予言した。天正10年(1582年)、信長の命令を受けた秀吉により毛利家は備中まで押し込まれて滅亡寸前になっており、恵瓊は秀吉との講和交渉に尽力し、その際に恵瓊の予言通り、本能寺の変が発生して信長は横死を遂げた[1]

天正19年(1591年)、秀吉から恵瓊に対し、毛利家の所領内並びに伊予国豊前国筑前国における知行宛行朱印状(安芸・伊予など1万石)を発給されている。これは従来において恵瓊が秀吉から大名として取り立てられたもの、と見られ異例の黒衣の大名と言われていたが、その後も恵瓊は毛利家に仕えており豊臣氏に仕えていたわけではなく、この朱印状はあくまで秀吉が寺領を安堵するものだったのではないかと見られている。秀吉の朝鮮出兵の際には毛利家の指揮官の1人として渡海するが、恵瓊自身に兵力は無く、実際には毛利家諸将や国衆の指揮を務めていたと見られている[1]

関ヶ原[編集]

詳細は「毛利秀元処遇問題」を参照

僧侶である恵瓊が毛利家の家政や秀吉の後押しを受けて介入することを、多くの毛利家臣団は好ましく思っていなかったとされる。唯一の理解者だったのは毛利両川小早川隆景だけであったが、その隆景も慶長2年(1597年)に亡くなり、恵瓊は毛利家中において孤立を深めた。

慶長3年(1598年)8月に秀吉が死去する。この前後に毛利家中は毛利秀元処遇問題という政治問題で揺れており、秀元と親しかった恵瓊は秀元と輝元の仲を取り持っていたことが一次史料から確認されている。

慶長5年(1600年)、徳川家康の命令で上杉景勝を討伐する会津征伐が発令されると、恵瓊は七将事件で失脚していた石田三成と共謀して反徳川の決起を画策し、毛利輝元の西軍加担において大きな主導的役割を果たした。従来はこの加担については恵瓊が全て暗愚な輝元を操作して操っていたと見られていたが、それにしては一次史料からおかしい点も多くうかがわれる。例えば、7月12日に長束正家増田長盛前田玄以ら3奉行が輝元に上坂を求める書状を送っているが、輝元はそれを受けて「15日」に広島を出立し、しかも2日後、あるいは4日後に大坂城に入城している。当時の大坂から広島まで書状を届けるには3日の日数が必要だが、3日後に書状が届いたからといってすぐに出立など不可能で、普通はそれなりの準備がいるし、ましてや軍勢を連れて上坂するとなるとさらに日数がかかるはずだが、輝元はわずか2日、あるいは4日で到着しているから、かなり準備を念入りにしていたものと見られ、相当な下準備を輝元がしていた可能性があり、必ずしも恵瓊が輝元を操っていたのではない可能性がある。

一方、恵瓊と日頃から不仲で対立していた吉川広家は、恵瓊と共に家康の会津征伐に向かうように命じられて7月13日に大坂に到着したが、そこで輝元や恵瓊の計画を知り驚愕。7月14日付で早くも徳川四天王である榊原康政宛の書状を出して「毛利家の挙兵は恵瓊の独断」であるとして弁明している(ただし、これは発送されておらず、後世の偽作の可能性が高いと見られる)。

恵瓊はその後、西軍首脳の1人として近江瀬田の普請、伊勢安濃津城攻めに参加。その後、美濃南宮山に着陣した。ただし、僧侶で自分の所領というものをほとんど持っていない恵瓊が指揮できる実際の兵力は無く、輝元から益田氏熊谷氏三村氏平賀氏などの国衆や竹井惣兵衛らを付けられて指揮権を与えられていたものの、元々軍事的な経験の乏しい恵瓊は彼らを統率できなかった、と見られている。9月12日付で石田三成が大坂にいる増田長盛に宛てた書状でも「恵瓊と長束正家は敵(東軍)に恐れおののいている。自分が進言した刈田すらやろうとしない」と述べているほどである。そのため、9月15日の本戦では南宮山の山麓の最前列に布陣しながら恵瓊の判断のみで毛利軍を指揮することができず、戦闘を傍観するしか無かったとされている[2]

結局、関ヶ原本戦は西軍の大敗に終わり、恵瓊は単身で戦場から逃亡して京都鞍馬寺に逃れ、その後に本願寺坊官である下間頼廉の娘婿・端坊明勝に匿われて六条に潜伏。しかし、9月24日に発見されて捕縛された[2]

なお、南宮山から逃亡する際、途中から引き返して吉川広家の陣に赴き、「自分は腹を切らされるだろうが、覚悟はできている」と述べ、広家はそれに対して「その要なし。人数や武具を取り除けて一介の僧侶として落ち延びて行かれよ」と返答し、秀元の陣で一夜を過ごさせた後、京都に潜入したとの記録もある。

そして10月1日、西軍首脳の1人として石田三成、小西行長と共に京都市中を引き回しの上で、六条河原において斬首。首は三条橋に晒された[2]。享年不明だが、60代前半と見られる。

家臣[編集]

登場する作品[編集]

テレビドラマ
映画
小説
  • 松本清張『夜の足音 : 短篇時代小説選』「背伸び」角川文庫、2009年 ISBN9784041227657

脚注[編集]

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注釈[編集]

出典[編集]

  1. a b c d e 渡邊大門「関ヶ原合戦人名事典」P360
  2. a b c 渡邊大門「関ヶ原合戦人名事典」P361

参考文献[編集]

関連項目[編集]