細川忠興
細川 忠興(ほそかわ ただおき、1563年11月13日 - 1645年12月2日)は、戦国時代から江戸時代にかけての大名、武将。妻は細川ガラシャ、郡藤、明智光忠の娘、清田鎮乗の娘、真下元家の娘、りん。子は長、長岡休無、古保、忠利、多羅、万、立孝。通称・別名は与一郎、三斎。
生涯[編集]
1563年、京にて出生。幼名は熊千代(くまちよ)。父は細川藤孝、母は沼田麝香(沼田光兼の娘)。時の将軍足利義輝の命により、若くして奥州細川氏の当主にあたる細川輝経の養子となる[注 1]。1565年に三好三人衆によって義輝が永禄の変で討死すると、藤孝や一色藤長らはのちの足利義昭を将軍に擁立させた。しかし義昭と織田信長が徐々に対立し始め、忠興・藤孝ら細川家は1573年に信長に服従した。やがて足利義昭が追放されると、輝経も義昭に従って鞆の浦へ向かっている。
1577年3月に忠興は紀州征伐に参戦し、初陣を飾った。同年10月の信貴山城合戦では、弟の興元と共に一番槍の武功を挙げた。この時の落石による頭部の血痕は、死ぬまで消えなかったと伝わる。
1578年に忠興は元服し、忠興(ただおき)と名乗った。
1579年には藤孝と共に一色義道を滅ぼし、さらに明智光秀の娘にあたる明智玉(のちの細川ガラシャ)を正室に迎えた。玉は絶世の美女と伝わっており、さらに彼女らはとても仲の良い状態だったという。結婚当時、相互16歳である。この頃、細川家は信長の命で九曜紋を定紋とした。
1581年には京都御馬揃えにも参加[注 2]。続いて朝倉、武田征伐にも出陣した。
1582年に本能寺の変で信長が没すと、明智光秀らに助けを求められるが、断固拒否する。そこで明智玉は裏切り者の娘として幽閉された。さらに藤孝は幽斎と名乗り剃髪して隠居、忠興が正式に家督を継承した。その後羽柴秀吉に従い一色満信を殺害して一色氏を滅ぼし、丹後全域の領有を認められた。1584年には小牧長久手の戦いにも参戦し、徳川家康らと戦った。
一方で明智玉はこの頃に秀吉によって大坂で厳しく監視された。さらに玉は侍女を通じて隠れてキリスト教に入信し、細川ガラシャと名乗るようになった。
1590年、小田原に布陣して小田原征伐にも参加した。1592年からは朝鮮半島に上陸して文禄の役で慶尚道を制圧、晋州城攻防戦で苦労を要するが1593年に攻略することができた。1595年の秀次事件では秀吉に嫌疑をかけられて閉門となり、一時は切腹の噂も流れたという。しかし徳川家康や家臣の松井康之らの力により嫌疑は解かれた。
秀吉死後は徳川家康に従い、1599年に豊後を加増された。1600年には細川ガラシャが石田三成に邸宅を襲撃されて命を絶つ。関ヶ原の戦いでは東軍として出陣し、相川の南近辺に5000の兵で布陣して石田三成隊を壊滅させ、勝利を収めた。一方で細川幽斎や弟の幸隆は留守の忠興に代わって田辺城に籠城した。その後、江戸幕府内では小倉城を改修して小倉藩の藩主となった。1610年、父の幽斎が死去。1615年には大坂の陣にも出陣した。
1620年に病気のため忠利に家督を譲り隠居した。晩年は三斎宗立と称して剃髪、文化人として腕をふるった。1632年に肥後熊本へ加増転封となった。
1645年に83歳で死去。
人物[編集]
- 茶人。千利休の弟子で、利休七哲の一人である。千利休が堺を立つ時は、古田織部と共に見送った。
- エンペディアには、ゆがみ (茶杓)など忠興の所持していた茶器についての記事が存在する。
- 晩年は佐々木小次郎に剣術を学んだとされる。