伏見城
伏見城(ふしみじょう)とは、現在の京都府京都市伏見区桃山町二の丸にあった日本の平山城である。別名を桃山城・指月城・木幡山城という。城の規模は東西1000メートル、南北1100メートルで、標高は100メートル、比高は80メートルである。豊臣秀吉終焉の地であり、また関ヶ原の戦いの前哨戦である伏見城の戦いが行なわれた城として著名である。
概要[編集]
築城[編集]
伏見城は東山連峰の最南端である桃山に位置し、南方に巨椋池と宇治川を眼下に望み、水運により大坂と京都とを結ぶ要衝であった。
豊臣秀吉は小田原征伐・奥州仕置を完了させて天下統一を完成させると、天正20年(1592年)から李氏朝鮮への出兵、いわゆる文禄の役を開始した。その文禄の役を発した年の8月、秀吉は新しい隠居城として伏見に築城することを計画し、着手を開始する[1]。
同年の10月、石垣が完成し、文禄2年(1593年)閏9月には秀吉は伏見に移った。文禄3年(1594年)に文禄の役の講和について明の講和使節が日本にやって来ると、秀吉はその使節を伏見で引見するために城の拡張、本格的な築城工事を開始する。造営奉行には佐久間政家ら6人が任命され、普請には朝鮮出兵に参加していない大名から1万石につき24人の軍役が課されて徴発を命じられ、石材は讃岐小豆島から、木材は土佐や出羽と伏見から遠国にあたる地域から調達を命じられた。同年の4月、淀古城の天守閣と櫓が伏見城に移建される[2]。文禄4年(1595年)7月、秀次事件が発生して豊臣秀次が自害させられると、秀吉は聚楽第を解体した上で伏見城への移築を行なった。この間、秀吉は指月の新城に居城を移しており、以後も伏見城の拡張工事を進め、対岸の向島には秀吉の別邸である支城も建設された[3]。
文禄5年(1596年)閏7月、慶長伏見大地震により指月新城は倒壊し、指月の地よりやや東北よりの木幡山(桃山)に改めて縄打ちが行なわれ、その上で伏見城の再建が進められる[4]。秀吉は昼夜兼行で突貫工事を行なうように命令したので、その結果、10月10日には本丸が完成し、慶長2年(1597年)5月には天守閣や殿舎が完成した[5]。そして10月には船入学問所の茶亭が完成した。慶長3年8月18日(1598年9月18日)に秀吉は62歳でこの城において生涯を閉じたが、その際に伏見城はまだ拡張工事の最中であったと伝わっている。
秀吉歿後[編集]
秀吉の死で国内に兵が帰還した朝鮮出兵で、福島正則・加藤清正ら武断派と小西行長・宇喜多秀家ら文治派の争いが既に発芽していたが、五大老の前田利家がわずか6歳の幼君である後継者の秀頼の傅役名目で大坂城で後見し、この両派の争いを何とか抑えていた。しかし、慶長4年(1599年)に利家が死去すると、次の覇権を巡って、五大老筆頭で内大臣の徳川家康と五奉行の石田三成との間で対立が発生。福島や加藤ら武断派7将による七将事件により、石田三成は奉行職を追われて失脚した。これにより家康は政治の実権をほぼ掌握し、慶長4年(1599年)閏3月13日に伏見城に入城した。これにより世間では家康が「天下殿」になられたと噂しあったという[6]。
慶長5年(1600年)になると会津の上杉景勝が上洛命令に応じないことを理由にして、家康は諸大名を招集して会津征伐を開始し、これが関ヶ原の戦いの前哨戦となる。家康が会津征伐のために東に主力軍を率いて出陣したのを好機と見て、失脚していた石田三成は小西行長・大谷吉継・宇喜多秀家らと共謀して家康に対する弾劾状を諸大名に送りつけ、公然と挙兵した。家康は畿内の守備として股肱の重臣である鳥居元忠らを伏見城の守備に残しており、三成は元忠に対して伏見城を明け渡すように命じるも元忠は応じず、三成は宇喜多秀家・島津義弘・小早川秀秋らの軍勢を派遣して総勢4万で城攻めを開始する。世に言う伏見城の戦いであるが、元忠は城兵1800人と共に奮戦し、2週間余りも抵抗した上で慶長5年8月1日(1600年9月8日)に伏見城は落城し、元忠ら将兵はことごとく戦死か自害を遂げ、細川ガラシャなど大名の妻女の一部も犠牲となった。この際に伏見城本丸・松の丸・名護屋丸などがことごとく焼失した[7][8]。
家康は関ヶ原本戦で石田三成ら西軍に大勝して覇権を完全に掌握する。そして慶長6年(1601年)に小堀政次を作事奉行に任命して伏見城再建に取り掛かり、慶長7年(1602年)に藤堂高虎を普請奉行に任命し、さらに中井正清を大工棟梁に任命して作事の指揮を任せ、畿内の諸大名に軍役の負担を命じた。同年末には伏見城の再建はほぼ完成し、家康は同時期に伏見城に入って政務を執った。慶長8年(1603年)2月に家康は朝廷から征夷大将軍宣下を受けているが、これは伏見城で受けたものである。そして同年の7月には伏見城城番に対する規則が定められた[9]。こうして江戸幕府の幕藩体制下の城としての伏見城の体制が整備された。ただしこの時点で伏見城はまだ未完成だったとされており、なおも普請は続けられた。
慶長10年(1605年)に家康の3男・徳川秀忠も伏見城で将軍宣下を受けており、これを機に本丸の殿舎の作事が開始される。しかし家康が大御所として駿府城で政治を執ることになったため、慶長11年(1606年)からは駿府城の工事が優先されることになり、伏見城の工事は一時的に停止となり、伏見城の器財や屋敷も駿府に移送されることになった。
慶長20年(1615年)5月に大坂夏の陣により秀頼が自害して豊臣氏が滅亡すると、伏見城は大坂城の抑えという軍事的要衝の地位を失って急速に利点を失う。江戸幕府は京都での儀典用として二条城を、伏見城を将軍の居館用として使用するようになり、一国一城令が出されると江戸幕府は伏見城の利点が無いとして秀忠の嫡男・徳川家光が第3代征夷大将軍として宣下を受けた元和9年(1623年)7月を最後にして廃城とすることが決められ、同年から築城の始まった淀城に建造物並びに機能共に吸収されていった。城跡には桃樹が植え込まれたので、後に桃山と称されるようになり、これが安土桃山時代の呼び名の起源になったという。
大正時代になると、伏見城本丸のやや南方に明治天皇陵、名護屋丸の南方に昭憲皇太后陵が営まれ、中心部は宮内庁の所管となり、史跡としては指定外となっている。昭和時代末期からは徳善丸の西方に天守の復興が開始された[10]。