原虎胤
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原 虎胤(はら とらたね、明応6年(1497年)[1] - 永禄7年1月28日[1](1564年3月11日))は戦国時代の武将。武田氏の家臣。武田二十四将、武田の五名臣の一人に数えられる。父は能登守友胤[1]。弟に桑原甚助。子に横田康景、盛胤、重胤、娘(初鹿野忠次室)ら。一時期、北条家の家臣でもあった。
生涯[編集]
受領名は美濃守[1][2]。下総出身の浪人で、永正年間に父と共に甲斐に流れて武田信虎の家臣となった[1][2]。足軽大将衆に取り立てられ、騎馬35騎、足軽100人持となった[1][2]。
天文10年(1541年)に信虎が追放された後は晴信に仕え、晴信の信濃攻めに従軍して多くの武功を立てて活躍した[1][2]。
『高白斎記』によると天文20年(1551年)11月に信濃平瀬城将に任命されたという。これは同城が破却される2年後の5月まで務めた[1][2]。
同年、武田家から出奔して相模の北条氏康を頼って家臣となる[1][2]。しかし翌年に武田家に帰参した[1][2]。
晴信が信玄と号して出家した際に虎胤も出家し、清岩と号した[1][3]。永禄4年(1561年)の信濃割ヶ岳城攻めで負傷した[1][3]。その3年後の1月28日に68歳で病死[1]。
人物像[編集]
武田家中はおろか、隣国にもその勇名が聞こえた猛将で「甲斐の鬼美濃」と称されて恐れられた[1]。その武勇は信玄からも高く評価されていたようで、馬場信春に美濃守の受領名を与えた際に「原の武名にあやかれ」と述べたと伝わる[4]。
脚注[編集]
参考文献[編集]
- 柴辻俊六 編『武田信虎のすべて』(新人物往来社、2007年) ISBN 978-4-404-03423-6
- 柴辻俊六 編 『武田信玄大事典』(新人物往来社、2000年)ISBN 4-404-02874-1
- 『戦国驍将・知将・奇将伝 ― 乱世を駆けた62人の生き様・死に様』歴史群像編集部編、2007年