勝山合戦
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勝山合戦(かつやまかっせん)とは、永正5年(1508年)10月に武田信虎軍と油川信恵軍との間で行われた合戦である。この合戦は家督をめぐる同族抗争で、武田信虎軍が勝利して武田家の内紛はひとまず終結した。戦場は現在の山梨県甲府市上曽根字勝山。
経歴[編集]
武田家では信虎の祖父・信昌が嫡子・信縄が病弱だったため、次男の信恵を偏愛して家督を信恵に譲ろうとした。このため明応年間から武田家では武田信昌・油川信恵と武田信縄に分裂して家督抗争を繰り返していた。この抗争は信縄が優勢だったが、この争いの間に周辺の北条早雲や今川氏親の圧迫などもあり、ひとまず武田家では紛争を止めて両派は和議を結んだ。ただし、根本的には何も解決されてはいなかった。
永正2年(1505年)に信昌が死去し、その2年後に信縄が死去し、武田家の家督は僅か14歳の信縄の嫡子・信虎が相続する[1]。するとかねてから家督に野心を燃やしていた信恵は翌年に信虎と和睦を破棄して再び抗争を開始した。この時、信恵軍には弟の岩手縄美や小山田弥太郎、栗原昌種、河村重家、工藤氏などが味方した。信虎軍には穴山信懸、大井信達、今井氏や武田家の家臣となった中小国人層が味方した[2]。
10月4日、信虎は信恵とその軍勢を勝山で撃破する。この戦いで信恵をはじめ、その息子の弥九郎、珍宝丸、清九郎や岩手縄美、栗原昌種、河村重家など反対勢力の主だった者の大半を討ち取った[3]。これにより、信昌時代から続いていた家督継承問題に終止符が打たれ、信虎の当主の地位は晴信に追放されるまで不動のものとなる[2]。
脚注[編集]
参考文献[編集]
- 柴辻俊六 編『武田信虎のすべて』(新人物往来社、2007年) ISBN 978-4-404-03423-6