安芸国
安芸国(あきのくに)とは、現在の広島県の西半分を占めていた日本の旧国名である。芸州(げいしゅう)とも言われる。毛利元就ら毛利氏が本拠とした国として知られている。江戸時代には広島藩が置かれていた。
概要[編集]
山陽道8国の一つに数えられる。安芸国は沼田郡・加茂郡・安芸郡・佐伯郡・山県郡・高宮郡・高田郡・沙田郡の8郡から成立していた。『延喜式』によると、国府は安芸郡府中町に、国分寺は東広島市西条町に置かれていたようである。
この安芸国は平安時代末期に平清盛の知行国になるとその支配の下で繁栄し、特に厳島神社は清盛の手厚い庇護を受けて安芸国一宮となって栄えた。鎌倉時代には甲斐国の武田氏の傍流である安芸武田氏が守護となり、守護大名として戦国時代まで支配したが、隣国の大内氏の侵攻などを受けて衰退し、天文10年(1541年)には高田郡の国人領主だった毛利氏が大内氏の支援を得て侵攻し安芸武田氏は滅亡した。その毛利氏は毛利元就の下で安芸国を統一すると、大寧寺の変で一気に衰退した大内氏を滅ぼし、さらに山陰の尼子宗家を降服させて中国地方の大半を収める覇者となり、同じ国人領主の家系の一門の吉川氏や宍戸氏と共に領国を支配した。
元就の死後、織田信長に安芸国内は侵攻されなかったものの、沼田郡の新高山城主だった次弟の小早川隆景の進言で豊臣秀吉の配下となることでその所領の大半を維持したが、秀吉没後の関ヶ原の戦いにおいて元就の孫・毛利輝元が西軍の総大将になってしまう失策を犯してしまい、徳川家康の命令で大幅な減封となり、長門国に移って、父祖の故地の安芸国を手放した。
代わって関ヶ原の戦いで大きな戦功を立てた福島正則が49万5000石で広島城に入り、ここに広島藩が成立する。福島正則の治世は19年に及ぶが、豊臣氏を滅ぼして覇権を確立した江戸幕府は、危険な外様大名を改易する武断政策をとり、正則は同じく豊臣恩顧の系統の肥後の加藤忠広(加藤清正の息子)、会津の加藤明成(加藤嘉明の息子)と共にその標的とされて元和5年(1619年)に改易された。その後、浅野長晟(浅野幸長の次弟)が入り、備後国の一部と共に広島藩を支配した。以後、浅野氏の藩政で明治時代を迎え、明治の廃藩置県の過程で安芸国の区域は広島県となった。
なお、北広島町八幡地区の一部に、1953年12月に旧石見国那賀郡から編入された区域がある。