北条時政

出典: 謎の百科事典もどき『エンペディア(Enpedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動
北条 時政
ほうじょう ときまさ
生年月日 保延4年(1138年
死没日 建保3年1月6日1215年2月6日
死没地 伊豆北条
職業 武将政治家執権(初代)
配偶者 伊東祐親の娘、足立遠元の娘、牧の方ほか
初代執権・北条時政

北条 時政(ほうじょう ときまさ、保延4年(1138年) - 建保3年1月6日1215年2月6日))は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての政治家武将鎌倉幕府の初代執権(在任:建仁3年(1203年) - 元久2年(1205年))。源頼朝の挙兵に協力し、娘の政子を頼朝の正室とした外戚として権力を握る。頼朝没後の御家人による権力争いで梶原景時比企能員畠山重忠らを次々と滅ぼして北条氏の勢力を拡大して自らは初代執権として政権を牛耳るが、その権力獲得の過程に一族からも非難が起こり、牧氏の変において失脚して追放された。

父は北条時方(あるいは北条時家)。母は伊豆掾伴為房の娘。子に宗時政子時子義時阿波局時房政範、娘(畠山重忠室、後に畠山義純室)、娘(稲毛重成室)、娘(平賀朝雅室)、娘(三条実宣室)、娘(宇都宮頼綱室)、娘(坊門忠清室)、娘(河野通信室)、娘(大岡時親室)らがいる。

生涯[編集]

前半生[編集]

通称は北条四郎という[1][2]。父は北条時方、あるいは時家とされるなど[1][2]、系図や史料上の混乱から断定できていない。北条氏は歴代当主が伊豆田方郡北条に在住していたことから、伊豆の在庁官人であったと見られている[1][2]。また、上総介平直方の5代目の孫(玄孫)であるという[1][2]。前半生に関しては不明な点が多い[1][2]

曽我物語』『源平盛衰記』が伝えるところによると、平治の乱の翌年の永暦元年(1160年3月平清盛によって伊豆に流罪にされた源頼朝の監視役を伊豆伊東荘の領主だった伊東祐親と共に命じられたという。

嘉応2年(1170年4月伊豆大島に流罪にされていた源為朝の討伐に参加した[1][2]治承元年(1177年)から治承2年(1178年)にかけて、時政は京都大番役として上洛していたが、その間に娘の政子が流人だった頼朝と男女の関係を持った上に、長女の大姫が生まれる事態になってしまう[1][2]。このことが平清盛の耳に入ることを恐れた時政は政子を山木兼隆に嫁がせて頼朝と隔離しようと画策するが、政子が熱海の走湯山権現(現在の静岡県熱海市)にいた頼朝の下に逃れて抵抗したので失敗し、結局は頼朝と政子の仲を認めざるを得なくなったという[1][2]

頼朝の外戚として[編集]

治承4年(1180年5月、頼朝が以仁王の平清盛征伐の令旨を受けるに及び、時政は頼朝を助けて反平氏政権の挙兵に協力する立場をとった[1][2]8月に伊豆の目代であった山木兼隆を討った[1][2]。しかし平氏方の大庭景親率いる軍勢と石橋山の戦いで交戦して敗れ、頼朝に従って海路から安房に逃れた[1][2]9月になると頼朝の命令で息子の義時と共に甲斐武田氏への使者として遣わされる[1][2]10月には味方にした甲斐信濃の軍勢と共に駿河黄瀬川にまで進出してきた頼朝と合流し、富士川の戦い平維盛率いる平氏軍に勝利する[3][2]。以後は頼朝の側近として常に傍近くに侍り、岳父として権力を得ながら平氏討伐・源義仲討伐に協力した[3][2]

平氏滅亡後の文治元年(1185年10月、頼朝の異母弟である源義経に対して後白河法皇が頼朝追討の宣旨を下すと、11月に時政は頼朝の命令を受けて上洛し、京都に進駐する[3][2]。時政は京都進駐軍の司令官として義経の追捕、並びに義経と親しい関係にあった後白河近臣の処分、京都の治安維持(京都守護)などを担当しており、1000騎の兵力で後白河法皇や公家らを威圧し、一方で交渉しながら荘園公領の区別無く全国一律に田地一反ごとに5升の兵糧米を徴収する権利を認めさせたという[3][2]。文治2年(1186年)、後白河法皇から7か所の地頭職を与えられるが、3月にはすべて辞職し、一族の北条時定ら35人を京都の治安維持に、朝廷との交渉を頼朝の妹婿である一条能保に任せると、自らは鎌倉に帰還した[3][2]。在京中に権力をふるった時政を九条兼実の『玉葉』において「頼朝代官北条丸」「頼朝義父、近日珍物」と評している。この時政の行動については後白河院政に取り込まれることで頼朝の疑惑を受けることを恐れた時政の政治的配慮と見られている[3]

文治5年(1189年)6月、奥州藤原氏討伐を祈願して伊豆北条に願成就院を建立し、7月には頼朝に従って奥州攻めに従軍する[3][2]

建久3年(1192年)に鎌倉幕府が成立し、頼朝が初代征夷大将軍になるとますます岳父・側近として重用され、建久4年(1193年)5月に頼朝の命令により駿河の狩猟場整備を命じられて鎌倉を下向する[3][2]。このことから、文治年間の内には頼朝から伊豆・駿河両国の守護に任命されていたことがうかがえる[3][2]

政権争い[編集]

建久10年1月13日1199年2月9日)に頼朝が死去し、後継者に頼朝と政子が生んだ長男の源頼家がなる。すると4月には頼家の親政を停止して時政を含めた御家人十三人の合議制が成立する[3][2]正治2年(1200年)4月には従五位下遠江守に叙任する[3][2]。これにより将軍の外祖父として、さらには重鎮としての立場を固めてゆく。

しかし頼家やその外戚である比企能員と次第に対立を深め、建仁3年(1203年)8月に頼家が重病に倒れて再起不能とみられた際、時政は頼家の権力を2分割することを提案し、頼家の嫡男である源一幡に関東28か所の地頭職を、頼家の弟である千幡(源実朝)に関西38か所の地頭職を相続させることにした[3][2]。ところが、これを聞いた比企能員は激怒して頼家に不満を訴え、頼家は時政追討の命令を能員に発するに至る[3][2]。これを聞いていた娘の政子がすぐに時政に通報し、時政は機先を制して能員を誘い出して誘殺し、一幡をはじめとした比企氏一族を滅ぼした[3][2]比企能員の変)。さらに頼家の将軍職を廃して伊豆に幽閉し、弟の実朝を後継者に擁立して将軍の外戚並びに政所別当として幕府の実権を完全に握るに至る。これは時政ひとりの署名の下文でありながら諸国の御家人に対する所領安堵を行なっていることなどからも明らかで、将軍に代わって時政が事実上の最高権力者として以後は君臨することになった[3][4]

元久4年(1204年)、後妻の牧の方との間に生まれた娘の婿である平賀朝雅[注 1]を京都守護に任命する[3][4]。元久2年(1205年)6月、朝雅から通報を受けた牧の方の讒訴を口実にして有力御家人である畠山重忠に謀反の嫌疑を着せ、討手を差し向けて武蔵二俣川付近(現在の神奈川県横浜市)で誅殺するに及んだ[3][5]畠山重忠の乱)。しかし、人望の厚い重忠殺害に関しては他の有力御家人はもとより、一族の義時・時房ですら時政を非難するほどで、これを機に時政は一気に幕府内で孤立を深めるに至った。

失脚と死去[編集]

元久2年(1205年)閏6月、時政は牧の方と共謀して外孫で第3代将軍であった源実朝を廃し、娘婿の平賀朝雅を将軍に擁立しようとする[3][5]。前述の畠山重忠の排除により時政に対する反感を高めていた政子や義時はこれに賛同せず、実朝を庇護して時政の排除に動いた。結局、時政の実朝排除は失敗に終わり、時政は出家することを余儀なくされて伊豆北条へ退隠することを余儀なくされた[3][5]。この際に明盛という法号を称している[3][5]

第2代執権には息子の義時が就任し、時政は以後、政治に関与することは許されなかった。承元元年(1207年)11月に伊豆の願成就院の南に塔婆を建立して供養を行なっている[3][5]

建保3年(1215年)1月6日、患っていた腫物の悪化により死去した[3][5]享年78[3][5]

系譜[編集]

脚注[編集]

  1. 頼朝の高祖父八幡太郎義家の弟の新羅三郎義光の曾孫。
出典
  1. a b c d e f g h i j k l 北条氏研究会『北条氏系譜人名辞典』新人物往来社 2001年、256頁
  2. a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y 安田元久 編『鎌倉・室町人名事典コンパクト版』新人物往来社、1990年、P545
  3. a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w 北条氏研究会『北条氏系譜人名辞典』新人物往来社 2001年、257頁
  4. a b 安田元久 編『鎌倉・室町人名事典コンパクト版』新人物往来社、1990年、P546
  5. a b c d e f g 北条氏研究会『北条氏系譜人名辞典』新人物往来社 2001年、258頁

参考文献[編集]