新田義貞

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新田 義貞(にった よしさだ、? - 延元3年/建武5年閏7月2日1338年8月17日))は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての御家人武将。同時代の英雄のひとりとして知られている。鎌倉幕府を滅ぼし、その功績により建武政権の一翼を担う大勢力の一人となるが、同政権から離反した足利尊氏との戦いに敗れて戦死した。父は新田朝氏。弟に脇屋義助。子に義顕義興義宗、娘(千葉氏胤室)ら。

生涯[編集]

鎌倉幕府の御家人として[編集]

新田朝氏の子として生まれる。母は不詳で、生年に関しても正安2年(1300年)か正安3年(1301年)などの諸説がある。義貞の通称は小太郎。

新田氏の所領は上野国新田郡世良田を中心にして存在していたが、鎌倉幕府からは一御家人として冷遇され続けた。特に執権北条氏からは新田氏と隣合わせに所領を持っていた同じ源氏由来の足利氏と歴代当主が姻戚関係を通じていたのに対し、新田氏は無視され続けた。文保2年1月2日1318年1月21日)に父・朝氏が死去したため、家督を相続して新田氏の当主となる。

元弘元年/元徳3年(1331年)に後醍醐天皇が鎌倉幕府に対して挙兵(元弘の乱)。これに対して幕府は後醍醐天皇が立て籠もった笠置山に対して鎮圧の兵を送った際、当時京都大番役を務めていた義貞も幕府軍の一員として加わっている。正慶2年/元弘3年(1333年)に楠木正成護良親王らが討幕の挙兵をすると、幕府は再度鎮圧のための大軍を派兵したが、この際にも義貞は幕府軍の一員として参加している。義貞は楠木正成が立て籠もる千早城を攻撃したが、その参戦中に赤松円心土居通増得能通綱菊池武時らが次々と討幕の挙兵をしたことから、義貞も幕府の衰退を見てその前途を見限り、執事の船田義昌を通じて密かに討幕のための密議を行ない、畿内近辺でゲリラ活動をしていた護良親王から討幕の令旨を得ると、病気と称して千早城攻撃部隊から離れて上野に帰国した。

鎌倉幕府を倒す[編集]

同時期、後醍醐天皇が隠岐国を脱出して、それを奉じた名和長年船上山で挙兵するなど、鎌倉幕府では危機的状況が続いていた。得宗北条高時はこれに対して足利尊氏を畿内への援軍として派遣し、さらに戦列を離れた新田義貞からは軍費の調達を命じるために黒沼彦四郎を新田氏の所領に派遣した。このとき、義貞は幕府を倒すために越後国など各地にいる新田一族に協力を呼び掛けていたが、黒沼がやって来て徴税を行なっていたことを知ると黒沼を切り捨て、討幕の旗幟を鮮明にした。

そして正慶2年/元弘3年(1333年)5月8日、新田義貞は上野国新田郡の生品神社において挙兵する。この時に義貞に従うのは脇屋義助、大館宗氏堀口貞満岩松経家里見義胤江田行義桃井尚義などわずか150騎であったという。義貞はまず上野国の守護代・長崎氏を急襲して追放すると、その勢いのまま世良田から利根川を渡って武蔵国に入る。この頃には横山孝宣の率いる武蔵七党などの兵力が加わって数千に膨れ上がっていた。

これに対して北条高時は北条貞将北条貞国率いる幕府軍を新田討伐に差し向けるが、義貞はこれを小手指原の戦いで撃破する。次いで5月15日に高時の同母弟・北条泰家を総大将とした幕府軍に一時は苦戦を余儀なくされたが、三浦義勝の援軍を得て勢いを盛り返した義貞は遂に泰家も破った(分倍河原の戦い)。これら相次ぐ勝利に、それまで日和見していた陸奥国石川氏武蔵国熊谷氏遠江国天野氏足利千寿王とその家臣の細川氏の軍勢なども新田軍に加わったので、その兵力はたちまちのうちに数万に膨れ上がった。

5月18日早朝、義貞は鎌倉への攻撃を開始する。巨福呂坂には堀口貞満を、化粧坂には江田行義を、極楽寺坂には大館宗氏らを差し向け、自らは化粧坂で全軍の指揮をとった。しかし、幕府軍の抵抗は予想以上に激しく、攻撃した同日に執権北条守時を討ち取ったものの、義貞も大館宗氏を北条貞直に討ち取られてしまう。山側の通路からの侵入は不可能と判断した義貞は、稲村ヶ崎から海側を迂回して鎌倉市街に攻め込む作戦を実行する。『太平記』によると新田義貞は太刀を海に捧げて潮を引くように神に祈ったとされ、それが通じたのかそれまでの暴風雨が収まって潮も引いていき、それにより稲村ヶ崎の渡渉作戦を決行した。幕府側は万一に備えて水軍を待機させて海岸線を渡らせないようにしていたが、潮が引いたことで水軍は沖に流されてしまい、新田軍の渡渉作戦により鎌倉市街に侵入されて大混乱となる。新田軍の攻撃の前に鎌倉の防衛を務めていた北条貞将、北条貞直らが次々と討死。そして5月22日、葛西ヶ谷の東勝寺において得宗・北条高時やその重臣である長崎円喜ら北条一族らも自害して、北条一族と鎌倉幕府は遂に滅びることになった。

鎌倉を放棄して上洛[編集]

ところが鎌倉幕府を滅ぼした翌月の6月、義貞は鎌倉幕府を滅ぼした功績などをめぐって早くも足利氏と対立する。幕府を滅ぼした新田軍の中には尊氏の嫡男・千寿王と細川氏が参戦していたが、これはあくまで主力では無く数百であった。ところが戦後、幕府を滅ぼしたのは足利氏が参戦していたからだとして、参戦していた諸将が二階堂別当坊に在陣した千寿王のもとへ集まりだした。これは尊氏が派遣した細川和氏細川頼春細川師氏ら3兄弟が鎌倉に到着すると、鎌倉攻めに参戦していた諸将に尊氏の功績などを呼び掛けた結果であった。また、義貞はこの時点でまだ無位無官であり、それまで実績らしい実績も尊氏と比較すると明らかに劣っていたので、恩賞を期待する諸将は義貞より尊氏に期待して、二階堂に集まる者が多かったという。

結局、義貞は鎌倉支配の主導権争いで足利氏に敗れて、東国での地盤を固めることもできずにやむなく上洛する。8月、後醍醐天皇による鎌倉幕府討幕の論功行賞が行なわれて、新田義貞は従四位上越後守に叙任。また所領は越後のほか、上野国播磨国を与えられ、新たに成立した建武政権下において武者所の頭人にも任命された。これは足利尊氏に次ぐ恩賞であり、一族も手厚く遇されている。京都では五条高倉小路に屋敷を与えられている。

足利尊氏との対立[編集]

建武政権は後醍醐天皇の時代錯誤な政策と、武家を軽視して公家を重視した極端な恩賞格差から、短期のうちにその政権は破綻を迎える。建武2年(1335年7月になると、義貞が滅ぼした北条高時の遺児北条時行信濃国諏訪氏滋野氏らに擁されて挙兵し、当時鎌倉を守備していた足利直義を破って鎌倉を制圧した(中先代の乱)。この反乱は足利尊氏率いる足利軍の攻撃を受けて鎌倉は20日ばかりして奪い返されている。

すると、尊氏はそのまま鎌倉に居座って京都に戻ろうとせず、後醍醐天皇の呼び出しも無視し続けた。そればかりではなく旧将軍館跡に新しい屋敷を築くと、そこを本拠として中先代の乱における論功行賞を独自に行ないだした。『太平記』によると尊氏はこの際に自ら「将軍」を称したとされ、さらに諸将に恩賞の土地を分配したが、この際の土地の中に関東における新田義貞の所領も含まれており、これに激怒した義貞は後醍醐天皇に尊氏の非法を訴えたという。後醍醐天皇の度重なる呼び出しを無視し続けた尊氏だが、京都に戻るならば新田義貞を追討する許可が出ればと条件を出した。これに対して義貞も尊氏・直義兄弟の非法を訴えてその追討の許可を求めて一触即発の事態となる。『太平記』によると、このような中で鎌倉に流罪にされていた護良親王に付き従っていた女官・南の方が京都に戻ると、親王が中先代の乱の最中に足利直義の家臣・淵辺義博暗殺されたことを訴えた。それまで朝廷は護良親王は北条時行によって暗殺されたと考えていたとされ、これを知って驚愕した朝廷ではさらに足利直義が諸国に新田義貞を討伐するためにあちこちに軍勢の督促状を送っていたことが報告され、これにより足利氏に対する感情が一気に険悪なものとなり、後醍醐天皇は遂に11月19日に足利尊氏追討の勅命を下した。追討の上将軍には尊良親王が、大将軍には新田義貞が任命された。

新田義貞は三河国矢作川を皮切りに、鷺坂手越河原など各地で足利軍を破る。これは朝敵になることを嫌った尊氏が建長寺に入って出家の意思を示し、足利軍の総大将が直義であったために士気が上がらず、また参加する兵力が集まらなかったのが一因していると言う。

しかし12月、遂に尊氏は直義の説得を受けて総大将として立ち上がって反撃し、それにより発生した箱根・竹之下の戦いで新田軍はそれまで味方だった佐々木道誉大友貞載塩冶高貞らの裏切りもあって大敗を喫して京都に逃げ戻った。

延元元年/建武3年(1336年1月11日、尊氏は義貞を追って京都に入京する。これは作戦だったとされており、2日後の1月13日奥州から北畠顕家率いる大軍が到着すると、新田義貞は楠木正成、名和長年らと協力して一気に反撃に出た。1月16日、義貞は大津の西方にあった足利軍を破り、逢坂山を越えて三条河原で足利方の細川定禅の軍勢と激突して勝利した。ただしこの戦いで執事の船田義昌を失っている。さらに1月30日には足利軍を兵庫方面に追いやると、ここで軍を建て直そうとしていた足利軍を2月10日から翌2月11日の戦いで楠木正成と協力して再度破り、尊氏を九州にまで追いやった。

この戦いの功績により、義貞は左近衛中将にまで昇進する。さらに『太平記』によると後醍醐天皇が寵愛していた女御の1人で、一条行房の妹で美女として知られていた勾当内侍を与えられたという。義貞は勾当内侍の美しさに溺れて尊氏の追撃をここでおろそかにしてしまう。ようやく追撃を開始した際にまず攻め込んだ播磨国においても、足利方の赤松円心が守る白旗城で無駄な時間を過ごす醜態を晒した。『太平記』によると円心が義貞に建武政権における自らへの恩賞が不当なほど少ないことに不満があり、もし後醍醐天皇が播磨の守護職を与えてくれるならばお味方すると申し出て、それを信じた義貞が京都にいる後醍醐天皇に使者を送って往復10日ほどして播磨守護職を約束した宣旨を持って帰って来た使者を派遣すると、円心はその書状をはねのけて、播磨守護職は将軍(尊氏)からもらうと述べて使者を追い返して義貞を激怒させ、白旗城に釘付けにさせたとされている。なお、新田軍は上野国の広大な平原で騎馬戦を得意にしており、城攻めは苦手にしていたことも長期戦になった一因と推測されている。

義貞が白旗城で50日も時間を無駄にしている間に、尊氏は九州を制圧しその軍勢をもって西上を開始。やむなく義貞は白旗城攻略を諦めて兵庫に撤退し、ここで5月25日に有名な湊川の戦いに至る。この湊川の戦いで義貞は大館氏明、脇屋義助と共に和田岬に陣を置いたが、衆寡敵せず敗北した。なお『太平記』によると新田義貞は薄金なる鎧を身にまとい、鬼切・鬼丸という太刀を振るって、飛んでくる矢を12本まで切って落とすなど奮戦したという。しかし追い詰められたので、家臣の小山田高家が身代わりとなって何とか虎口を脱したという。

湊川の敗戦により、京都は再度尊氏に占領され、義貞は後醍醐天皇を奉じて比叡山に逃れた。比叡山の戦いにおいて義貞は奮戦し、足利軍の高師重高師久?)を討ち取るなど一時期は優位な戦況を作り出した。一時は新田義貞が細川定禅の軍勢を打ち破ると、尊氏が本陣としていた東寺にまで進出して矢を射かけて、尊氏に一騎討ちを申し入れるなど大いに奮戦してもいたのだが、千種忠顕、名和長年らを失うなど、次第に戦況は官軍不利になってゆく。9月になると佐々木道誉によって近江からの補給が断たれたので比叡山に籠もる後醍醐天皇や新田義貞は孤立。これで弱気になった後醍醐天皇は、それを見計らったように和睦を申し入れてきた尊氏の申し出を受けて義貞に秘密にして京都に還幸しようとした。この還幸は新田一族の堀口貞満の制止によって止められ、義貞は後醍醐天皇の皇子尊良親王恒良親王公家洞院実世らを付けられて北陸で勢力を再建するように命じられている。

越前での活動と最期[編集]

義貞は越前国に向かったが、ここには尊氏から守護に任命されていた足利一族の斯波高経がおり、義貞は高経の妨害を受けながらも越前に入国すると、敦賀気比氏治の支援を得て金ヶ崎城に入城する。義貞が越前に落ち延びたことを知った尊氏は、高経だけでなく高師泰を総大将とした援軍を派遣して金ヶ崎城を攻めさせた。しかし足利軍は大軍であり、さらに足利方には今川頼貞仁木頼章などの錚々たる武将も加わって危機的状況となる。官軍方の瓜生保が金ヶ崎城を後詰したりもしたが、これは足利軍に阻止されて瓜生は戦死した。兵糧攻めにあった金ヶ崎城は落城寸前となり、延元2年/建武4年(1337年3月6日に遂に落城。この時に義貞の嫡男・義顕と尊良親王は自殺し、恒良親王は捕縛されて京都に送られた。このとき、足利方は義貞とその弟・脇屋義助も死んだと見なしていたとされる。

しかし実は義貞と義助は生き延びていた。落城するおよそ1か月前に援軍を得ようと城から脱出していたのであった。

この年の8月、北畠顕家が奥州の軍勢をまとめて挙兵し、南下して鎌倉を落とす。そして越年して延元3年/建武5年(1338年)1月に鎌倉から京都を目指して西上を開始した。同時期に落ち延びて再挙を図っていた新田義貞も脇屋義助と共に挙兵。日野川で越前守護・斯波高経の軍勢を打ち破った。『太平記』によるとこの敗戦が越前各地に伝わるや、同国における足利方の出城が1度に73も降参したとされている。新田義貞の勢いを恐れた斯波高経は藤島庄の北にあった黒丸城に立て籠もって抗戦した。

その頃、美濃国にまで進出していた北畠顕家の軍勢は、ここで行なわれた青野原の戦いで足利の大軍を撃破する。しかしこの戦いにおいて美濃守護・土岐頼遠の奮戦にあって北畠軍は勝利しながらもかなりの犠牲を被ってしまった。『太平記』によると、青野原で勝利した北畠顕家は、関ヶ原近くで背水の陣を敷いていた足利軍と再度衝突することを恐れて、家臣と対策を協議した。家臣の中には越前で活動していた新田義貞と合流して比叡山に押し出すべきという意見もあったが、北畠顕家がそれでは新田義貞に名を成さしめることを恐れて合流を拒否したとされている。また、北畠軍が鎌倉を制圧した際に北条時行が味方として合流しており、この時行が北条一族を滅ぼした義貞と合流することを強行に反対したとされている。結局、北畠軍は新田義貞との合流を選ばず、伊勢国に入って、そこから伊賀国を経て大和国に向かうという戦いを避ける道を選択したが、これは足利方を非常に勇気づけることになり、顕家は奈良の般若坂の戦い高師直率いる足利軍に敗れて、河内国に落ち延びている。

この間、義貞は越前平定に尽力しており、斯波高経が立て籠もる黒丸城以外はほぼ攻略済みであった。このため、義貞は弟の脇屋義助に兵力を与えて別働隊として京都に進出させ、北畠顕家を助けようとしたが、顕家は延元3年/建武5年(1338年)5月22日石津の戦いで戦死して間に合わなかった。

そして閏7月2日、義貞は3万の軍勢をもって斯波高経が立て籠もる黒丸城を攻撃する。しかし高経も懸命に抗戦して城は容易に落ちなかった。その上、それまで義貞に味方していた平泉寺僧兵5000が斯波高経に寝返って新田軍を攻撃したため、義貞はあせってわずか50騎ばかりの兵をひき連れて援軍に向かう。だが、燈明寺畷を通過する際に藤島城の援軍に向かっていた足利方の細川孝基鹿草公相らの300騎と遭遇して戦闘となる(藤島の戦い)。

『太平記』巻20によると、焦って50騎ばかりしか連れていなかった義貞の軍勢には、楯も持ってなければ弓の射手も連れていなかったという。それに対して細川軍は直ちに馬を下りて深田に持ち楯を並べて矢を射かけたという。この義貞の危機に対し家臣が「大将が名も無き兵を相手にされてはなりません」と言って撤退を懇願したが、義貞は「士卒を失って自分ひとり死を逃れようとは思わぬ」と述べて拒否したという。そして矢が馬に当たって落馬し、義貞の眉間に矢が当たった。義貞は死を悟って自らの刀で自らの首を斬りおとした、とされている。享年は39歳か38歳とされる。

義貞の死骸の前で、義貞に最後まで従っていた結城上野介・中野藤内左衛門尉・金持太郎左衛門尉らは次々に切腹して義貞に殉じた。

義貞の首級は足利方の越中国の住人・氏家重国によって取られ、その首級は京都に送られた。京都の足利尊氏は義貞の首級を「朝敵の最たるもの」として都大路を引き回した上で、獄門にかけた。

義貞は越前平定中に本陣としていた石丸城からおよそ4キロのところにある称念寺をたびたび訪れ、住持の白道上人に念仏往生の法門を聴聞していた。その白道ら8名の僧侶は義貞の首の無い遺体を燈明寺畷から運んで、称念寺に葬ったという。

獄門にかけられた義貞の首級を見た勾当内侍は、悲しみのあまり仏門に入って、京都往生院の近くに庵を結んで生涯、義貞の菩提を弔ったという。

義貞の死により、越前平定中だった新田軍は四散する。脇屋義助がその後を引き継いで一時期は越前を平定したが、やがて尊氏が派遣した室町幕府軍に敗れて北陸から追われ、最終的に義貞の死からわずか4年後、伊予国で勢力を再建している時に急病により死去したという。

評価[編集]

『太平記』の著者は義貞の戦死を「犬死」と評している。著者は「義貞は身を慎んで命を全うし、大義の功をなすべきであったのに、自ら取るに足りぬ戦場に赴いて、雑兵の矢に命を落としたことは情けない」と評している。

義貞は騎馬戦に強く、戦略を度外視してまで戦場での美学にこだわる鎌倉武士としては理想的な武将であった。しかし、南北朝の動乱において義貞の行為は時代錯誤であり、時代遅れの武将で足利尊氏や楠木正成よりはやはりどこか劣る感がある。

関連作品[編集]

外部リンク[編集]