小幡昌盛
ナビゲーションに移動
検索に移動
小幡 昌盛(おばた まさもり、天文3年(1534年)[1] - 天正10年3月6日[1](1582年3月29日))は、戦国時代の武将。甲斐武田家の家臣。父は武田二十四将の一人に数えられる小幡虎盛。正室に原虎胤の娘。子に昌忠、在直、景憲、昌重。受領名は豊後守[1]。官途名は又兵衛尉[1]。
生涯[編集]
武田信玄に仕え、永禄4年(1561年)の父の死去により家督を継ぐ[1]。甲斐武田家では足軽大将衆で同心衆3騎、足軽20人持だった[1]。父は信濃海津城を守る任務を受けていたが、昌盛はその役目を叔父の光盛に譲り、自らは信玄の旗本衆、武者奉行となる。後に出家して随応軒と号した[1]。
天正10年(1582年)2月から開始された織田信長の武田征伐においては、既に死の床にあり参加はできなかった。武田勝頼が自害して武田家が滅亡するわずか5日前に病死した。享年49[1]。
武田征伐で織田軍に敗れた勝頼が天目山を目指して落ち延びる際に、昌盛は勝頼に対して最後の暇乞いをした後に病死したといわれている。なお、正室は「鬼美濃」で有名な猛将・原虎胤の娘だが、昌盛もかなりの勇将でそれを知った信玄が「鬼の子には鬼の娘がふさわしい」として、虎胤の娘と結婚させる計らいをしたという逸話がある。
脚注[編集]
参考文献[編集]
- 柴辻俊六 編 『武田信玄大事典』(新人物往来社、2000年)ISBN 4-404-02874-1