平安時代
平安時代とは、日本の時代区分である。
概要[編集]
京都が日本の中心であった、9-12世紀を指す時代区分である。
一つの時代区分としては400年と長く、醍醐天皇や村上天皇など一部の例外はあったが、平安時代中期は藤原氏による摂関政治、後期は上皇・法皇といった隠退した天皇、末期は武士上がりの平清盛と権力者が何度も入れ替わった。その間に、天皇の権力は落ちていき、多くの天皇が権力者の傀儡であった。結局、武力を持つ者が権力を握る道筋となり、源頼朝が鎌倉を拠点に支配する様になってからは、鎌倉時代と呼ばれる。
奈良時代に頻繁に行われた遣唐使は、平安時代には2回しか派遣されなかった。その中で、日本独自の文化が花開く様になった。
期間[編集]
始まり[編集]
長岡京から平安京に遷都した794年。平城京から長岡京に遷都した784年とすることは少ない。
終わり[編集]
かつては、源頼朝が征夷大将軍に任命された1192年とされていた。征夷大将軍就任自体に大きな意味は無いが、1192が「いい国」と読め、語呂が良いから[要出典]1192年が鎌倉時代の始まりとされた。現在では、鎌倉幕府の政治体制が事実上揃った1185年とされることが多いが、諸説ある。
権力の変遷[編集]
当初は天皇にも権力があったと思われるが、藤原家(北家冬嗣流)の勢力が徐々に強まっていった。特に第56代清和天皇は9歳で即位し、藤原良房が事実上の人臣初の摂政に就いた。清和天皇の子の陽成天皇も幼児での即位で当初は藤原基経を摂政としたが後に対立。陽成天皇退位後、基経は50代で即位した光孝天皇から関白として政務を委任され、権力を握っていた。
しかし、まだ皇族と藤原氏のパワーバランスは流動的で、10世紀あたりでも醍醐天皇や村上天皇は天皇親政を行ったとされる。
10世紀半ばを過ぎると、短命、短期在位の天皇が続いたこともあり、藤原家(九条系、中関白家、御堂流)が権力を握り、藤原家の傀儡天皇が幼少で即位することが多かった。当時の貴族は母方の実家で育つことが多く、母方の親戚の強い影響下に置かれることが多かった。藤原家は、娘を皇室に嫁がせ、息子が生まれると幼少のうちに天皇に即位させることにより、天皇の母方祖父として権力を維持することに成功した。11世紀前半、御堂流の藤原道長の時代が絶頂期であったとされる。
しかし11世紀後半、母親が藤原氏の直接の出身で無い後三条天皇が即位した所で流れが変わり、藤原家の権力は落ちていく。次の白河天皇は長生きした一方で、早々に隠居して上皇・法皇となり、若年の天皇に変わって権力を握った。これを院政と呼ぶ。以降同様に、若くして隠居して傀儡天皇を据える例が増えた。
一方地方では、荘園の領地争いなどで武士が登場していた。特に、下級武士が地方に下って武士の棟梁になるケースが多かった。その中で台頭したのが伊勢平氏と河内源氏で、いずれも地方で多くの武士を従える一方で、上皇や摂関家といった上級貴族の警護役も務めていた。その中で、12世紀半ばになると、上級貴族同士の争いに武力を用いることが増え、貴族お抱えの武士同士での戦争が発生した(保元の乱、平治の乱)。この中で伊勢平氏の平清盛が台頭し、武力を背景に上皇・法皇をもしのぐ権力を手にして、武士が上に立つ世の中が始まった。しかしその伊勢平氏も結局貴族化してしまい、東国を中心とした地方武士の不満は高まる一方であった。その中で、関東の武士が、河内源氏の嫡流である源頼朝をかついで反乱を起こし、伊勢平氏は滅亡、鎌倉幕府の時代が到来することとなる。
宗教・文化[編集]
遣唐使は2度しか派遣されなかった。しかし遣唐使の中に最澄・空海がおり、唐での留学経験も踏まえて天台宗、真言宗を創始した。
9世紀後半に、遣唐使は廃止され、日本独自の文化が花開く時代となった。源氏物語や枕草子の世界である。
平安時代末期には、世の中が退廃しきっているという末法思想が広がり、その影響で仏教の新宗派が多数誕生し始めていた。これらは鎌倉仏教に分類されるが、浄土宗や臨済宗が平安時代末期に誕生している。
平安時代の世界[編集]
中国は、唐の末期、五代十国、北宋、その後の金・南宋並立時代に相当する。日本とは、唐とは遣唐使で、南宋とは日宋貿易での関わりが強かったが、五代十国時代は交流が途絶え、北宋時代も私貿易での交流だった。
一方、東北部の女真族とされる民族が1019年に日本に侵攻(刀伊の入寇)し、藤原隆家が防いだ記録が残っている。
東南アジアでは、平安遷都とほぼ同時期に、シュリーヴィジャヤ王国からクメール王朝が独立し、インドシナ半島を支配下に置いた。アンコール・ワット、アンコール・トムといった巨大寺院群が作られた。
中東はアッバース朝の時代で、9世紀初めに最盛期を迎え、千夜一夜物語が生まれた。しかし、その後は衰退・分裂していき、10世紀後半には宗教的権威を持つのみとなっていた。北アフリカで10世紀初めに起こったファーティマ朝はエジプトを中心に支配していたが、12世紀後半にアイユーブ朝が取ってかわった。
近東では、ビザンツ帝国が古代ローマ以来の最盛期を迎えた。バルカン半島や小アジアなど、地中海東部を支配していて、事実上ヨーロッパ最大の国であった。
イベリア半島はイスラム王国である後ウマイヤ朝の支配下にあり、アッバース朝に劣らぬ繁栄を見せていた。しかしその後崩壊し、小国に分裂。この間にレコンキスタが進み、12世紀にはキリスト教国の支配地が多くなり、イスラム教世界は半島南部に留まっていた。