源頼朝

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源頼朝
みなもとの よりとも
源頼朝坐像.jpg
14世紀に描かれた頼朝の巻物。
改名 鬼武者・鬼武丸(幼名)
時代 平安時代鎌倉時代
生誕地 伊豆
死没地 鎌倉
出身地
創設 鎌倉幕府
役職 征夷大将軍
官位 正二位
後任者 源頼家
配偶者 北条政子
子供 源頼家源実朝大姫、三幡姫
源義朝 (父)、藤原季範娘 (母)
家族構成 弟 - 源義経源範頼阿野全成
親戚 叔父 - 源行家
従兄 - 木曽義仲
補足 清和源氏河内源氏出身
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源頼朝(みなもとのよりとも)とは、平安時代後期から鎌倉時代にかけての武士、鎌倉時代の政治家、河内源氏の棟梁、鎌倉幕府の初代征夷大将軍である。

生涯[編集]

清和天皇から所生の皇子が臣籍降下した清和源氏の系統。

義朝平治の乱平清盛に敗れて、知多半島で元家臣の長田忠致に暗殺された後に捕えられたが、清盛の義母の池禅尼に助命され、伊豆に流刑となった。以後、東国を根拠とした。石橋山の戦いで敗戦、真鶴半島から房総半島へと渡った後、千葉常胤上総介広常などと有力武士に出会った。

一ノ谷の戦い屋島の戦いでは源義経とともに優秀な功績を残した。壇ノ浦の戦いでは頼朝の影は薄く、義経の活躍が大きかった。

1185年北条時政を交渉役に、義経捕縛を名目に旧来からあった地頭職と新設の守護職を設置・任免する権利を得た。さらに従三位に昇叙して政所を設置する権利を得て、鎌倉に独立政権を形成した。同年、義経を藤原泰衡に頼んで自害に追い込ませた。

初代鎌倉殿であり、1192年には征夷大将軍に叙された[注 1]正室北条政子で子供に鎌倉幕府2代征夷大将軍の源頼家、同じく鎌倉幕府3代征夷大将軍の源実朝が居り、他に2女がいる。

1199年落馬[注 2]で死去した。享年51。

関連作品[編集]

テレビドラマ

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  1. 頼朝は後年のように征夷大将軍を重職としておらず、2年で辞している
  2. 頼朝の死には毒殺や病死など色々な説がある。現代医学に照らし合わせて考えると、糖尿病が悪化したという説もある