武田信豊 (甲斐武田氏)
武田 信豊(たけだ のぶとよ、天文18年(1549年) - 天正10年3月16日[1](1582年4月8日))は、戦国時代の武将。武田家の親族衆で武田信玄の同母弟である武田信繁の次男[1]。信玄の甥で、武田勝頼の従弟に当たる。幼名は長老[1]。仮名は六郎次郎[1]。官途は左馬助[1]。受領名は相模守[1]。兄に望月信頼、弟に望月信永。正室は小幡憲重の娘。子に雅楽、次郎、娘など。信繁・信豊父子は共に官途に「左馬助」を名乗ったため、その唐名(中国名)から「典厩」(てんきゅう)と呼ばれた[2]。
生涯[編集]
信玄の時代[編集]
生年の天文18年は『当代記』によるものである。永禄4年(1561年)の第4次川中島の戦いで父が戦死したため、13歳で家督相続して信玄に仕えた。『甲乱記』によると3歳年長の従兄である勝頼とは仲が良く、永禄12年(1569年)の駿河蒲原城攻めでは勝頼と2人で敵城に斬り込み、信玄を焦らせたという逸話もある。
元亀2年(1571年)の三河侵攻に参加[1]。この頃より頭角を現し、元亀3年(1572年)に朱色の指物の使用を許可された[1]。
信豊の所領は信濃佐久郡にあり、居城は小諸城(現在の長野県小諸市)であった。『甲陽軍鑑』によると信豊は信繁の死後、その地位をそのまま継承したようで、武田家の「御親類衆」筆頭で武田信廉(第2位)や勝頼(第3位)より席次は高く、武田家でも極めて高い地位にあったことが伺える(勝頼が3位であるのは世子に選ばれる前のためと推測される)。
勝頼の時代[編集]
勝頼の時代にも引き続いて25歳の若さで御親類衆筆頭として重用された[2]。『甲陽軍鑑』によると勝頼政権における政策決定は信豊・跡部勝資・長坂虎房・麟岳の4名によりなされていたという。天正3年(1575年)の長篠の戦いで武田家の重臣の大半が戦死するとその重用はさらに深まり、主に武田家の外交を担当した。なお、この合戦で実弟の望月信永が戦死したため、信豊は名代として望月氏の所領を支配することにもなった[3]。『甲陽軍鑑』によると信豊は単独で200騎、望月領は60騎の軍役が課されていたため、信豊は260騎という武田一門でも群を抜いた騎数を持っていたことになる[3]。また正室は上野最大の先方衆である小幡氏の娘で、天正7年(1579年)には御館の乱による影響で北条高広の帰属交渉を担当するなど、上野における影響力には大きなものがあった[3]。他にも亡命した将軍・足利義昭との外交も担当している[1]。
天正2年(1574年)には銀の采配の使用を許可された[1]。
御館の乱から北条家と敵対するようになると、信豊は同じく北条家と敵対する常陸の佐竹義重と甲佐同盟を締結している[4]。北条家との戦いでは中心的な役割を果たし、天正8年(1580年)から相模守の受領名を称しているのは相模国主の北条家を意識してのものであったとされる[4]。
天正10年(1582年)2月に織田信長による武田征伐が始まると、信豊は勝頼の命令で信濃諏訪に在陣する[4]。しかし穴山信君が徳川家康に降ったため、勝頼は甲斐に戻る事になり、信豊は勝頼の命令で小諸城に入るように命令された(『甲乱記』)。これは上野や東信濃における信豊の影響力の大きさを期待しての指示であったとされるが、信豊にその地域の武田軍を取りまとめて勝頼を救援する事はかなわず、勝頼自害から5日後の3月16日に小諸城代であった下曾根信恒に裏切られて自害した[4]。享年34。
信豊の首級は織田信長の下に送られ、勝頼や武田信勝と共に晒されたとされるが、この処置は信豊が武田家の重要人物である事を信長からも見られていた事を伺わせるものである[4]。