浅利信種
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浅利 信種(あさり のぶたね、? - 永禄12年10月6日[1](1569年11月14日))は、戦国時代の武将。甲斐武田家の家臣。父は浅利虎在[1]。弟に義益、子に昌種。官途は右馬助[1]。一説に式部少輔で信音という官途や諱も伝わるが、文書からは右馬助信種しか確認できない[1]。
生涯[編集]
父と共に武田信玄の時代から仕えた。浅利氏は甲斐武田氏に連なる甲斐源氏の一族で、室町時代から同家の譜代の重臣だった[1]。天文15年(1546年)に同心90騎を与えられて侍大将となる[1]。後に譜代家老衆に列して同心衆も220騎まで増えている[1]。
永禄10年(1567年)2月に竜朱印状の奏者として活動し(『井出文書』)、同年8月に吉田信生と共に奉行を務めている(『下郷起請文』)。永禄11年(1568年)1月には上野箕輪城代となる(『漆原文書』)。この際に同城の在城衆や番手衆、さらには西上野国衆を指揮下に置いた[1]。
永禄12年(1569年)10月6日、北条氏照・北条氏邦兄弟と激突した相模三増峠の戦いで戦死した[1]。家督は嫡子の昌種が継いだが、同心衆は120騎に減らされた[1]。
法名は泰公禅定門[1]。
脚注[編集]
参考文献[編集]
- 柴辻俊六 編 『武田信玄大事典』(新人物往来社、2000年)ISBN 4-404-02874-1