安芸武田氏
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安芸武田氏(あきたけだし)とは、日本の氏族であり、武家である。安国寺恵瓊で知られる一族であり、甲斐武田氏の一族である。
概要[編集]
承久の乱で戦功を立てた甲斐武田家の第5代当主・武田信光は安芸国の守護職を与えられた。これが安芸武田家の起源である。ただし、当初は甲斐武田家の属領扱いで、安芸には守護代が置かれていた。
南北朝時代に武田家は一時的に安芸国の守護職を失ったが、武田信武が北朝に属したことにより回復した。後に室町幕府で実力者となった今川了俊により安芸守護職を一時的に奪われているが、安芸武田家はこれを機に土着して佐東郡・安南郡・安北郡・山県郡の4郡を支配する安芸の分郡大名として君臨した。当初は幕府も安芸武田家の支配は承認していなかったが、大内氏の勢力が強大化したことからそれに対抗する必要性により、安芸武田家の支配はそのまま追認となった[1]。
この大内氏との対立は、そのまま戦国時代まで続いていく。戦国時代には出雲国の尼子氏と同盟して大内氏や毛利氏と敵対した。永正14年(1517年)10月、当時の安芸武田家の当主・武田元繁は安芸における勢力を拡大するため、大内方の毛利氏を攻めた。これに対して迎撃したのが毛利元就で、兵力差は歴然としていたにも関わらず、元繁は元就に敗れて討ち取られた(有田中井手の戦い)。この「西の桶狭間」を契機として安芸武田家は急速に衰退。逆に毛利元就の威勢と勢力は拡大していき、元繁の戦死から24年後の天文10年(1541年)、元就により居城の金山城が落とされたことにより、滅亡した[1]。
なお、安土桃山時代に活躍した毛利氏の外交僧・安国寺恵瓊は安芸武田氏の武田信重の遺児と伝わり、金山城の落城時に落ち延びて僧侶になったのだといわれている。