徳川幕府

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徳川幕府(とくがわばくふ)は、徳川家が征夷大将軍として江戸にて日本を統治していた政権である。徳川幕府によって統治していた時代を江戸時代(えどじだい)と呼ぶ。また、江戸幕府とも呼ぶ。

存在していた時期[編集]

一般には1603年徳川家康征夷大将軍に任ぜられてから、徳川慶喜が大政奉還した1867年までが徳川幕府の政権とされる。

成立までの経緯[編集]

豊臣秀吉の治世で五大老の一人であった徳川家康は、豊臣秀吉の死後、豊臣秀頼の後見として政務を行っていた。やがてこの豊臣恩顧の政権内で分裂が起き、関ヶ原の戦い徳川家康率いる東軍が、石田三成率いる西軍を破り、その3年後に征夷大将軍に任じられて徳川家康が江戸に徳川幕府を開いた。後に大阪の陣で豊臣氏は滅び、徳川氏の政権継承体制が確立した。

概要[編集]

天皇から任命された徳川家の征夷大将軍が二百諸侯の大名に対して任地を定めて封じた封建体制の政権であり、大名家には参勤交代を義務付けた中央集権だったが、直轄領以外の領民の支配は大名家の采配に任せる地方分権を併用した体制だった。

大名に子がなかったり、大名にふさわしくない行動があったときは大名を免じて、その土地に別の大名を統治させたり、あるいは幕府直轄領(天領)とした。由井正雪の乱以降、幕府は末期養子の禁を緩和して死の間際に養子を定めることを解禁したが、実際は、幕府が許可した血縁の薄い他家からの養子が継承して、系統が全く変わってしまった大名家もある。

征夷大将軍の下には老中が配置され、征夷大将軍の補佐、あるいは征夷大将軍が病弱だったり、暗愚だった場合は主導して合議制で政務を行った。元禄以降は、将軍への取次役である側用人が政務を牛耳ったこともあった。

改革[編集]

貨幣経済の浸透により国内の経済に行き詰まり、いくつもの改革が行われた。

なお、田沼時代は改革とされないが、昨今研究が進んで、貨幣経済の浸透に合わせた経済政策が試行されたとされている。

終焉[編集]

1853年黒船来航により、国内経済の悪化の上、外圧も加わり、大政奉還を迎えた。

外交[編集]

国家間の対等な外交関係は、通信使が代替わり毎に来日した朝鮮王朝のみだった。オランダ、清は幕府管理の貿易国に過ぎず、後に鎖国政策と呼ばれることになる。

関連項目[編集]

脚注[編集]

日本列島の統治
先代:
豊臣政権
(1585年 - 1603年)
徳川幕府
(1603年 - 1867年)
次代:
大日本帝国
(1868年 - 1947年)