海野信親

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海野 信親(うんの のぶちか、天文10年(1541年)- 天正10年3月11日1582年4月3日))は、戦国時代僧侶甲斐国戦国大名武田氏の当主である武田信玄の次男。幼名は二郎。母は三条の方(三条院殿)で、信玄の嫡男・義信、夭折した信之は同母兄弟、信玄の4男で武田家の家督を継承する武田勝頼は異母弟にあたる。法名の竜芳から武田 竜芳(たけだ りゅうほう)とも言われている。通称は次郎。子に武田信道

略歴[編集]

武田信玄の次男で、母は正室の三条の方。長兄に同母兄の義信がいる。本来なら兄を助ける立場にあったはずだが、信親には障害があったためにその立場を貫くことができなかった。

信親は生来から盲目であったとする説と、信玄が出した弘治元年(1556年)9月の願文によれば、この年に疱瘡を患って失明したともある。このため、信玄は信親を武将として育てることを諦めて、御伽衆使僧であった長延寺実了にその養育を託し、以後は半俗半僧の修行者として育つこととなり、聖導様と称された。僧侶としての名は竜芳という。

なお、年代は不明であるが信玄は信親を信濃佐久郡の領主であった海野幸義の娘と結婚させて、海野信親と名乗らせているが、これは名目上のみのことであったとされている。甲府の城下の聖導小路に屋敷を構えることを許され、御聖導様衆として秋山虎泰ら5名を頭目として30騎の家臣が付けられていたと『甲陽軍鑑』には記録がある。

年代不明であるが、信玄が信親に宛てて「兄弟仲良くするように」と諭すような書状を送っていることから、義信か勝頼とは仲が微妙だったのであろうかと推測される(『山下家文書』)。

信玄の死後、異母弟の勝頼が家督を継承した天正元年(1573年)10月に、勝頼が下條氏に対して聖導様御料所の河原部(現在の山梨県韮崎市)の年貢を甲府に輸送するように指令を出している。

天正10年(1582年)2月に織田信長徳川家康連合軍による武田征伐が開始されると、信親は現在の山梨県甲府市住吉本町にある入明寺に逃走したが、そこで自殺した。42歳没。

墓所は自害した入明寺であり、法名は長元院殿釈潭竜芳大居士。

なお、現在まで続く信玄の血統は、信親の末弟・武田信清の子孫・米沢武田氏が最も信玄に近いものである(女系一代含め信玄子孫)。この竜芳(信親)の子孫・柳沢武田氏(武田宗家)は大正期に正統の武田嫡流とされたものの、途中で柳沢氏の養子が入り、現在では武田信玄の血筋ではなくなっている[1]

脚注[編集]

関連項目[編集]