板垣信方
板垣 信方(いたがき のぶかた、? - 天文17年2月14日(1548年3月23日))は、戦国時代の武将。武田氏の家臣。父は板垣信泰。弟に両角虎城。子に板垣信憲、酒依昌光、板垣信廣、女子(板垣信安室)、女子(板垣信奥室)、女子(板垣信寛室)ら。武田二十四将の一人であり、甘利虎泰と共に武田晴信時代初期の重臣で著名な人物である。諱は信形とも書かれる[1]。
生涯[編集]
受領名は駿河守[2]。武田信虎の時代からの重臣で、甘利と共に「両職」を務め家臣団の最高位に位置した[3]。永正17年(1520年)6月、都塚合戦・今諏訪合戦に参加したのが初見である[2]。天文9年(1540年)4月に信虎の命令を受けて信濃佐久郡に侵攻し、臼田城や入沢城をはじめ10数城を攻略した[2]。天文10年(1541年)に石山本願寺に対する取次を務めるなど外交面でも活躍している[2]。同年の信虎追放に関しては信方が主導したものとされる[2]。
武田晴信期には今川義元、北条氏康との外交を担当し、特に今川義元との関係は深く、信虎追放で義元への工作に信方が大きく寄与したものと見られている[2]。軍事面でも晴信期でも信虎期に引き続いて信濃攻めの先陣を務め、諏訪氏攻略を担当して諏訪頼重らの自害を差配したという[2]。天文12年(1543年)4月、初代諏訪郡司として上原城代となり、諏訪支配を担当した[2]。他にも山本勘助を晴信に推挙したり、詩歌に疎かったが猛勉強して詩歌の創作に没頭する若き晴信と合わせながら諌めたりしたという[4]。
しかし先代からの筆頭重臣として次第に独断専行が見られるようになり、晴信との関係は微妙になりだしたという[2]。天文17年(1548年)2月14日、村上義清との上田原の戦いで大敗を喫した際に戦死した[2]。法名は宗薫禅門、無一脱心大天居士[2]。
家督は子の信憲が継いだが、信玄より不行跡を問われて殺害されている[2]。
受領名の駿河守から『戦国の三駿河』の一人に数えられている[5]。