管領

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管領(かんれい)とは、室町幕府征夷大将軍を補佐する執事のことである。すなわち、室町幕府におけるナンバー2を意味する幕府の役職である。

概要[編集]

室町幕府が開かれた当初は鎌倉幕府と同じように執事と呼ばれていた。また、高師直足利氏に古くから執事として仕えていた家臣などが任命されており、当時は幕府のナンバー2というより、足利氏家宰と言うべきような地位であった。

第2代将軍・足利義詮貞治元年/正平17年(1362年)に斯波義将を執事として起用した。この頃から呼び方も執事から管領と改められるようになり、また足利氏の単なる家政機関というよりも幕府の重職として見られるようになった。当初は斯波氏細川氏から管領は起用されていたが、応永5年(1398年)に第3代将軍・足利義満畠山基国を起用すると、以後の管領は斯波氏細川氏畠山氏の3守護大名家から交替で選ばれることが慣例となった。この3家を「三管領」(さんかんれい)と呼ぶ。

この管領は幕府で大きな影響力を誇り、時には将軍を超える権力を振るうこともあった。しかし管領の地位をめぐって内紛が起こることも珍しくなく、そのため室町幕府が衰微する原因にもなっている。応仁の乱以降は畠山氏・斯波氏が没落したこともあり、唯一生き残って権力を強めた細川氏が管領職をほぼ独占するようになった。細川氏は歴代の足利将軍を傀儡にして幕府における事実上の最高権力者として君臨するが、今度はその細川氏内部でも管領職をめぐって一族で内紛が起こるようになる。そして、細川氏の家臣・三好氏が台頭するようになると細川氏も急速に権力を失うようになり、第13代将軍・足利義輝の時代にはほぼ有名無実と化してしまった。

後に織田信長足利義昭を奉じて上洛した際に、義昭はその功に報いるために信長を管領に任命しようとした。このことから既に幕府末期には三管領体制自体が形骸化していたことが伺える。信長はこれを拒否しており、管領は以後、歴史の表舞台に登場することなく終焉した。

執事・管領の一覧[編集]

執事[編集]

  1. 高師直(1336年 - 1349年)
  2. 高師世(1349年)
  3. 高師直(1349年 - 1351年)
  4. 仁木頼章(1351年 - 1358年)
  5. 細川清氏(1358年 - 1361年)

管領[編集]

  1. 斯波義将(1362年 - 1366年)
  2. 細川頼之(1367年 - 1379年)
  3. 斯波義将(1379年 - 1391年)
  4. 細川頼元(1391年 - 1393年)
  5. 斯波義将(1393年 - 1398年)
  6. 畠山基国(1398年 - 1405年)
  7. 斯波義重(1405年 - 1409年)
  8. 斯波義将(1409年)[1]
  9. 斯波義淳(1409年 - 1410年)
  10. 畠山満家(1410年 - 1412年)
  11. 細川満元(1412年 - 1421年)
  12. 畠山満家(1421年 - 1429年)
  13. 斯波義淳(1429年 - 1432年)
  14. 細川持之(1432年 - 1442年)
  15. 畠山持国(1442年 - 1445年)
  16. 細川勝元(1445年 - 1449年)
  17. 畠山持国(1449年 - 1452年)
  18. 細川勝元(1452年 - 1464年)
  19. 畠山政長(1464年 - 1467年)
  20. 斯波義廉(1467年 - 1468年)
  21. 斯波義廉(西幕府)(1468年 - 1477年)
  22. 細川勝元(東幕府)(1468年 - 1473年)
  23. 畠山政長(東幕府)(1473年)
  24. 畠山政長(1477年 - 1486年)
  25. 細川政元(1486年)
  26. 畠山政長(1486年 - 1487年)
  27. 細川政元(1487年)
  28. 細川政元(1490年)
  29. 細川政元(1494年 - 1507年)
  30. 細川澄之(1507年)
  31. 細川澄元(1507年 - 1508年)
  32. 細川高国(足利義晴方)(1508年 - 1525年)
  33. 細川稙国(1525年)
  34. 畠山義堯(1526年)
  35. 細川晴元(1536年 - 1549年)
  36. 細川氏綱(1552年 - 1564年)

関連項目[編集]

脚注[編集]

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注釈[編集]

出典[編集]

  1. 斯波義将の4度目の在任に関しては、『国史大辞典』で「管領」の項目を担当した百瀬今朝雄が後に「任命されたのは義淳であったが幼少であったため、実際の政務を義将が代行したもの」であって義将の任命は事実の誤認であるため、在任一覧表も訂正の必要があると発言している(百瀬『弘安書札礼の研究』(東京大学出版会、1994年)P271-273・277-278.)。