武田信虎

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武田信虎

武田 信虎(たけだ のぶとら、明応3年1月6日1494年2月11日) - 天正2年3月5日1574年3月27日))は、戦国時代武将甲斐守護大名戦国大名武田信玄の父。甲斐源氏宗家武田氏の第18代当主。

父の死後、家督を相続する。叔父の油川信恵とその一党を滅ぼして武田宗家の内紛を押さえ、さらに甲斐で続いていた一族の内紛も終息させて甲斐を統一し、武田家を戦国大名化した。その後は信濃国に進出して勢力を拡大するが、連年のように激しい軍事行動と同時に発生した飢饉のため、家臣団や領民の不満が高まって嫡男・晴信を擁した家臣団によるクーデターが勃発し、甲斐国を追放された。以後、諸国を流浪して最終的に武田領に戻る。皮肉にも晴信(信玄)より長生きし、81歳の長寿を保った。

略歴[編集]

父は第17代当主・武田信縄で長男。母は武田家の家臣・岩下越前守の娘。兄弟姉妹に勝沼信友桜井信貞吸江英心大泉寺2世)、女(小山田信有室)。正室は大井の方。側室は今井氏の娘(西昌院)、楠浦氏、工藤氏、松尾氏、上杉憲房前室など。子に竹松晴信(信玄)犬千代信繁信基信廉信顕一条信龍宗智松尾信是河窪信実信友勝虎定恵院、南松院(穴山信友室)、禰々、花光院(浦野氏室)、亀御料人大井信為室)、下条信氏室、禰津神平室、葛山氏室、菊御料人菊亭晴季室)らがいる。

仮名は五郎(ごろう)。初名は信直(のぶなお)という。永正4年(1507年)に父・信縄が病死したため、家督を相続して第18代当主となる。この頃の武田宗家は信縄とその弟の油川信恵が家督をめぐって抗争しており、信縄の死を契機に家督抗争が再び勃発する。永正5年(1508年)10月に信虎は油川信恵とその一族・一党を滅ぼして武田宗家の内紛を収束させた上、さらに信恵に味方していた武田の有力庶家や国衆への攻撃を開始し、永正7年(1510年)には郡内の小山田氏を服属させる。その後も今井氏大井氏と武田宗家に従わない国衆や庶家を次々と武力で屈服させて甲斐統一を進めた。永正16年(1519年)12月、それまでの本拠である石和川田館から、甲府の躑躅ヶ崎館に新しい本拠を築いて移転した。

ところが信虎が甲斐統一を進めるのに危機感を抱いた近隣の駿河国今川氏親相模国北条氏綱信濃国諏訪頼満らが大井氏らと結託して甲斐に侵攻する。これに対して信虎は大永4年(1524年)に武蔵国扇谷上杉朝興同盟を結んで対抗する。天文元年(1532年)に信虎は甲斐を統一した。

その後は勢力拡大に奔走し、天文4年(1535年)には氏親の跡を継いでいた今川氏輝の駿河に侵攻しようとしたが失敗する。逆に今川氏輝・北条氏綱に甲斐に侵攻されて危機に陥るが、これは何とか撃退した。天文5年(1536年)に今川氏輝とその後継になるはずだった今川彦五郎の兄弟が同時に急死し、今川氏で後継者争いである花倉の乱が発生すると、信虎は氏輝の同母弟である今川義元の後継を支持し、その見返りに嫡男・晴信の正室に今川氏の遠縁にあたる三条氏三条の方を迎えることで今川氏と同盟を結んだ。後に信虎の娘・定恵院が義元の正室として迎えられている。

一方で信虎は諏訪頼満とも和睦し同盟を締結する。こちらには娘・禰々を頼満の嫡孫・諏訪頼重の正室として嫁がせた。こうして後背の安全を確実なものとした上で信虎は天文9年(1540年)から信濃国佐久郡に侵攻して国外に領土を拡大する事にも成功した。天文10年(1541年)5月には諏訪頼重、村上義清と連携して小県郡にも侵攻した。

こうして連年の合戦で勢力を拡大する一方、甲斐の民衆には軍事活動による負担が大きくのしかかっていた。また同時期に飢饉に襲われて甲斐が苦しい状況にもあったため、家臣団や領民から信虎に対する反発が現れ始めた。さらに『甲陽軍鑑』によると、信虎は長男の晴信を疎んで次男の信繁を偏愛し、信繁を自身の後継者にしようと画策していたという。こうした事情が合わさり、家臣団は晴信を担いでクーデターを天文10年(1541年)6月に至って決行する。信虎は今川義元と会見するため、駿河にわずかな供を連れて赴いていたが、その帰還の際に晴信を担いだ家臣の板垣信方甘利虎泰馬場信春飯富虎昌などにより帰還を拒まれ、駿河にそのまま追放されたのであった。こうして武田家の家督は晴信が第19代当主として継承することになり、信虎は一介の流人に転落した。

以後、信虎は駿河の今川義元の庇護を受けながら駿河で過ごしたり、あるいは京都で過ごしたりした。この流浪の際に出家して無人斎道有と号している。以前は、今川義元が永禄3年(1560年)の桶狭間の戦い織田信長の前に敗死した後、後継者の今川氏真が暗愚なのを見て駿河の乗っ取りを画策し、それが失敗して京都に追放されたなどとされていたが、実際は義元の存命中に京都に上洛していたことが明らかになっている。

元亀4年(1573年)4月12日に信玄が陣没すると、信虎はその後継者で自分の孫に当たる武田勝頼を頼って信濃国高遠城まで帰還する。この際『甲陽軍鑑』などでは勝頼や当時の重臣である山県昌景・馬場信春・内藤昌豊高坂昌信らと会見したが、その際に80歳の高齢とは思えないほどの立ち回りを披露し、なおかつ馬場以外の家臣らとは面識も無かったので散々に罵倒したりして勝頼らを辟易させ、あるいは恐れさせたという。信虎自身は勝頼に自分を復権させてまた用いるように求めたが、家臣団はそうなることでまた昔の災いが復活するのを恐れて反対したため、勝頼も無用な争いを避けて信虎を叔父の武田信廉に預けたという。

天正2年(1574年)3月5日、信濃高遠城で死去した。享年81。法名は大泉院殿泰雲存公庵主。

人物像[編集]

『甲陽軍鑑』などでは嫡子の信玄(晴信)が神格化されている影響から、信虎は否定的に描かれ、暴君として不当なくらいの評価を受けている。甲斐に暴政を敷き、領民を重税や賦役で苦しめ、相次ぐ戦争で苦しむ領民がいるのに弾圧して妊婦の腹を切り裂いたなど、暴君説に関しては作り話じみたものまである。だが、長年にわたり続いていた武田家における内紛を1代で終わらせた手腕や武略はかなりのもので、この基礎が信虎により築かれていたこそ信玄は飛躍できたのであり、やはり信虎は1代の傑物だったと思われる。

関連作品[編集]

TVドラマ
小説