馬場信春

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馬場 信春(ばば のぶはる、永正11年(1514年[1] - 天正3年5月21日[1]1575年6月29日))は、戦国時代武将甲斐武田家家臣武田二十四将武田四名臣の一人に数えられる武田家きっての名将として著名な人物である。父は教来石信保。弟に信頼。子に昌房、娘(鳥居元忠室)、娘(真田信尹室)らがいる。

生涯[編集]

諱に関しては信房信政信武信松氏勝など様々な所伝がある[1][2]。現在の長野県上田市にある生島足島神社には永禄10年(1567年)に信玄が家臣団に対して起請文提出を命じているが、残念ながら信春の起請文は江戸時代に紛失したらしい[3]。ただし提出者の名簿が残されており、そこには「馬場美濃守信枩」とある[3]。「枩」は「春」の写し間違いと見られ、この時点では信春を名乗っていたのは確実と見られる[3]。天正3年(1575年)に長篠合戦での戦死者を書き留めた『恵林寺雑本』では「伊豆二子、馬場美濃守、信房」とあるため、ある時期まで信春を用いてから晩年に信房を名乗っていた可能性がある。

信春は現在の山梨県北巨摩郡一帯に分拠していた武川衆の教来石氏の出身で[3]天文15年(1546年)に同心衆50騎を与えられて侍大将・譜代家老衆に列し、同時に武田家譜代の重臣の家である馬場氏の名跡を継ぐことを武田晴信から命じられた[1](ただし武田信虎から名跡を与えられた説もある[3])。後に同心衆は120騎まで増やされている[1]。天文19年(1550年)7月に信濃深志城代となり、筑摩郡支配を担当した[1]

信玄の信濃出兵にも参加し、慶長年間に著した小笠原長時の家臣の二木寿最の記録によると、天文19年に深志城代だった信春が村上義清の軍と偽って長時の家臣・犬甘久知を騙し討ちにして大打撃を与えたり、天文21年(1552年)に信玄からの謀反の疑いが晴れたばかりの二木氏に対して家族を城に入れさせずに信頼できない素振りを見せ、三村氏が反乱を起こすと鎮圧に向かわせてその忠義心を最大限に利用したとされており(『二木家記』)、信春が謀略に長けていたことを著わしている。

『中牧文書』によると永禄2年(1559年)に美濃守の受領名を称している。これは信玄から「鬼美濃と呼ばれた原美濃守虎胤の武名にあやかれ」と言われて与えられたとされる[3]

永禄4年(1561年)の第4次川中島の戦い妻女山に篭もる上杉軍を攻撃するように献策したのは信春とされる[4]

永禄5年(1562年)に牧之島城代に転じて更級郡支配を任され、さらに越中椎名氏飛騨江馬氏を相備衆とし、両方面への御先衆を務めた[1]。越中・飛騨の攻略では最前線に味方となったその土地の武将に信頼できる部下を添えて配置し、自らは供の者数十騎を率いて常に信玄の傍に従軍していたと伝わる(『甲陽軍鑑』巻17)。

元亀3年(1572年)の信玄による西上作戦にも参加し、12月の三方ヶ原の戦いにも参加したが、この際に『甲陽軍鑑』によると討死した徳川家康の家臣を見て「敗れたとはいえ、三河武士は全て武田方に向かって倒れており、逃げようとする者がいなかった」と述べたという(『甲陽軍鑑』巻14)。

元亀4年(1573年)4月12日に信玄が死去すると、跡を継いだ勝頼に仕えた[5]

天正3年(1575年)5月の長篠の戦いでは織田信長・徳川家康連合軍と戦うことの不利を悟って勝頼に撤退を進言する[5]。しかし勝頼が容れなかったため、ならば次善の策と長篠城を多少の犠牲を覚悟して無理押しで落とし、城を奪って勝頼ら本隊は籠城し、別隊が連合軍と対峙して長期戦に誘い込み、徳川家康の後詰で来ている織田信長が最も嫌う長期戦で撤退に追い込む策を進言したが、これも勝頼に断られる始末だった[6][7]

5月21日に長篠合戦の火蓋が切られると、他の諸隊が総崩れになる中で信春の部隊のみは佐久間信盛隊を突き崩すなど奮戦した[8]。だが信春は他の諸隊の総崩れから敗戦を感じ取り、勝頼に再挙のために落ち延びることを進めた後[9]、自らは殿軍としてなおも敵の追撃を断つべく奮戦した。その奮戦振りは敵の記録である『信長公記』すら「中にも馬場美濃守、手前の働き、比類なし」と賛辞を惜しまない程であった。しかし兵力の多寡は明らかでしかも奮戦している内に多くの兵を失い、遂に信春は戦死した。享年62(一説に享年61とも[5][1]。法名は信翁乾忠居士[1]。家督は嫡子の昌房が継いだ[1]

人物像[編集]

信春は甲斐武田家の老臣の中でも随一の名将として描かれていることが多い。ただ、武田家は後年に織田信長に滅ぼされている関係もあり、実は武田家の記録における信春の史料は他の武将に比べると異常に少ない[1]ため実像に不明な点も少なくない[2]。先の諱に関して所伝があるのもそのためで、多くを江戸時代の軍記物や家伝、そして『甲陽軍鑑』などに頼らざるを得ないほどである[2]。しかし『信長公記』でその最期を賞賛されているのだから、やはり敵も認める名将であったのは事実であろう。

長篠に至るまで数十の合戦に参加して、その間一度も傷つくことがなかったため、『不死身の鬼美濃』と評されている。

『甲陽軍鑑』では信玄もその実力と器量を認めたとされ、「一国の太守になれる器量人」とまで評したという。同書では同じ四名臣の高坂昌信が「昔年の唐の国、今の我が国に至るまで、計略に優れている者を『謀臣』として褒め称える」と前置きをおいてから「大将たるべき者は英雄の心を見取って、その人物にふさわしい禄を与え、目をかけ処遇する」として信春の大将ぶりを評価している。

このように信春は信玄に信任されていたが、ならば信春は信玄の命令に何でも従うイエスマンかと言われればそうでもない。信玄が駿河に侵攻して宝物を奪い取るように命じた際、信春は宝物全てを独断で焼き払ってしまった。これを知った信玄は信春を質したが「滅び行くてきの財宝を奪い取るなど、恥知らずな武将のすることです」と答え、信玄は「さすが自分より7歳年上の武将だ」と自分の名を落とさずに済んだことを感謝したという[10][11]

信春は築城術にも長けていたとされる。武田家は「丸馬出」という独特の築城防備形式があり、この形式を考案した信春が城代を務めた深志城と牧之島城にはこれが採用されていたと伝わる。丸馬出とは城の出入り口を土塁などで囲み、脇に出入り口を設けて防備のために三日月の堀を配するものである[12]。また駿河方面の築城も担当し、清水城築城において信玄が「敵の海賊に城を奪われてもすぐに奪回できる構造にするように」という注文をこなした築城を担当したという[4]。『甲陽軍鑑』ではそれらの築城術は山本勘助から伝授されたとされており、後に『甲陽軍鑑』を完成させた小幡景憲は信春の弟子である早川幸豊から師事を受けたと伝わる[4]

脚注[編集]

  1. a b c d e f g h i j k 柴辻俊六 『武田信玄大事典』新人物往来社、2000年、P75
  2. a b c 歴史群像『戦国驍将・知将・奇将伝 ― 乱世を駆けた62人の生き様・死に様』P.59
  3. a b c d e f 歴史群像『戦国驍将・知将・奇将伝 ― 乱世を駆けた62人の生き様・死に様』P.60
  4. a b c 川口素生 『戦国軍師人名事典』学習研究社、2009年、P33
  5. a b c 歴史群像『戦国驍将・知将・奇将伝 ― 乱世を駆けた62人の生き様・死に様』P.63
  6. 戸部新十郎 『八つの戦いで読む智謀と戦略、信長の合戦』P.281
  7. 戸部新十郎 『八つの戦いで読む智謀と戦略、信長の合戦』P.282
  8. 戸部新十郎 『八つの戦いで読む智謀と戦略、信長の合戦』P.292
  9. 戸部新十郎 『八つの戦いで読む智謀と戦略、信長の合戦』P.289
  10. 歴史群像『戦国驍将・知将・奇将伝 ― 乱世を駆けた62人の生き様・死に様』P.61
  11. 川口素生 『戦国軍師人名事典』学習研究社、2009年、P32
  12. 歴史群像『戦国驍将・知将・奇将伝 ― 乱世を駆けた62人の生き様・死に様』P.62

参考文献[編集]

  • 柴辻俊六 編 『武田信玄大事典』(新人物往来社、2000年)ISBN 4-404-02874-1
  • 戸部新十郎 『八つの戦いで読む智謀と戦略、信長の合戦』(PHP文庫、2001年
  • 『戦国驍将・知将・奇将伝 ― 乱世を駆けた62人の生き様・死に様』歴史群像編集部編、2007年
  • 川口素生 『戦国軍師人名事典』(学習研究社、2009年)