武田信廉

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武田 信廉(たけだ のぶかど、天文元年[1][2]1532年) - 天正10年3月7日[1]1582年3月30日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将甲斐武田家の一族。武田信玄の同母弟で影武者を務めたことで知られる。

生涯[編集]

武田信玄の時代[編集]

父は武田信虎で4男(6男とも)。母は大井夫人(瑞雲院殿[2]。同母兄に信玄や信繁らがおり、他の兄弟に竹松犬千代信基松尾信是宗智河窪信実一条信龍らがいる。子に信澄、娘(仁科盛信室)、娘(河窪信俊室)、阿久利(小笠原信嶺室)、救山宗温、娘(大久保忠教室)ら。仮名は孫六[1][3]。官途は刑部少輔[1][3]。法号は逍遙軒信綱(しょうようけんしんこう)[4][1][3]。なお諱を信連と伝えるものもあるが、これは信廉と同音であるからそこから転化したものと考えられている[3]

17歳の時から発給文書が見えるようになるが[3]、武田信玄の時代から信玄の帷幕にあったが病弱で戦場で働くことは少なかったという。そのため信玄時代に目立った働きはなく、『甲陽軍鑑』では信廉の騎数は80騎と一門衆にしてはかなり少ない。同史料によると元亀元年(1570年)に内藤昌豊に代わって信濃深志城代となった[3]。元亀2年(1571年)に勝頼が甲府入りすると、後任として高遠城主となった[5][3]

武田勝頼の時代[編集]

元亀4年(1573年)4月、信玄が死去して勝頼が跡を継ぐと、42歳の若さで甲斐武田氏の長老となった[5]。この若さで長老となったのは武田信昌から信虎期まで続いた武田家の内紛で一族の多くが死去しており、年長の一門がほとんど残らなかったことによるとされる[5]。天正2年(1574年)に父の信虎が甲斐への帰国を図った際には信廉の高遠城に留められた[6]

しかし信廉は病弱で軍人としてもあまり有能で無かったためか、勝頼政権でも余り重用はされなかった。高遠城主とあるが、高遠城主にしては残されている史料が少ないし、大島城としても残されている史料は少なく、城主として政務を行なっていたのかどうかに関しても疑問がもたれている。天正9年(1581年)に仁科盛信が高遠城主に転じたため、信廉は後任の下伊那における大島城主になったとされる[5][3]

信廉は一門衆が少ない武田家で用いられただけで、知行は甲斐国内のほか、信濃深志城近辺や伊那郡にあったとされ、被官や同心など家臣団に関しては勝沼氏など信玄に処断された一門や諏訪・深志近辺の武士を中心に編成している[7]

天正10年(1582年)2月、織田信長により武田征伐が開始されると、信廉は小原継忠日向虎頭安中七郎三郎らと共に大島城を守備した(『信長公記』『甲乱記』)。しかし織田信忠の軍勢が大島城に迫ると信廉は大島城を放棄して甲斐に逃亡した[3]。なおこの放棄に関しては信廉が重病で軍の指揮をとること自体が無理だったためという説もある[7]

『甲乱記』では3月7日、織田信忠軍により捕縛され、鮎川原において処刑されたという[3]。享年51[1][3]

法名は逍遙院殿海天綱公庵主[1][3]

人物像[編集]

信廉は武将としては兄の信玄や信繁には遠く及ばない無能の存在であるが、絵画に秀でた文人で父の信虎像(大泉寺蔵)や母の大井夫人像(長禅寺蔵)などを描いている[5][3]

脚注[編集]

  1. a b c d e f g 柴辻俊六・平山優 『武田勝頼のすべて』新人物往来社、2007年、P230
  2. a b 柴辻俊六 編『武田信虎のすべて』新人物往来社、2007年、p.37
  3. a b c d e f g h i j k l m 柴辻俊六 編『武田信虎のすべて』新人物往来社、2007年、p.38
  4. 柴辻俊六・平山優 『武田勝頼のすべて』新人物往来社、2007年、P44
  5. a b c d e 柴辻俊六・平山優 『武田勝頼のすべて』新人物往来社、2007年、P45
  6. 柴辻俊六・平山優 『武田勝頼のすべて』新人物往来社、2007年、P46
  7. a b 柴辻俊六・平山優 『武田勝頼のすべて』新人物往来社、2007年、P47

参考文献[編集]