一条信龍

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一条 信龍(いちじょう のぶたつ、? - 天正10年3月10日[1][2]1582年4月2日))は、戦国時代武将甲斐武田家家臣。官途は右衛門大夫[1][2]。受領名は上野[1][2]

生涯[編集]

武田信虎の9男(10男と見る説がある)[2]武田信玄武田信繁の実弟。他の兄弟に武田竹松武田犬千代武田信廉松尾信是武田宗智河窪信実ら。子に信就武田信貞、娘(三宅正次室)らがいる。

甲斐源氏の名家である一条氏の名跡を継承し、市川郷の上野城を居城とした[1][2]。兄の信玄、甥の勝頼の2代に仕え、駿河甲斐武田氏の支配下に入ると駿府城代や田中城代を務めた[1]元亀年間に入ると大和松永久秀との外交交渉を担当した[1][2]。田中城代は後に子の信就と交代し、駿府城代は甥の武田信堯と協力して努めた[1][2]。天正8年(1580年)頃から上野介と称する[2]。同年9月以前に家督を子の信就に譲って隠居している。

天正10年(1582年)2月、織田信長徳川家康連合軍による武田征伐では家康軍の侵攻を受けて3月2日に甲斐に撤退[2]。勝頼が自刃する前日に上野城において戦死した[1][2]。あるいは子の信就と共に処刑されたと言われている。

武田家の中では名将と見られており、山県昌景馬場信春に次ぐ武名を誇ったという[1][2]

脚注[編集]

  1. a b c d e f g h i 柴辻俊六・平山優 『武田勝頼のすべて』新人物往来社、2007年、P220
  2. a b c d e f g h i j k 柴辻俊六 編『武田信虎のすべて』新人物往来社、2007年、p.40

参考文献[編集]