鎌倉幕府
鎌倉幕府(かまくらばくふ)は、日本における最初の武家政権。鎌倉幕府の約150年間を鎌倉時代と呼ぶ。源頼朝が鎌倉に創設された政権を始祖とし、北条氏ら東国の武士団が定着させた幕府である。武家政権による国政は室町幕府・江戸幕府へと継承された。
頼朝は自らの対抗馬になる義経、範頼といった兄弟や血族を滅ぼして鎌倉殿絶対体制を固めたが、死後、頼朝支配下の御家人の権力闘争に巻き込まれ頼朝の嫡流は断絶した。承久の乱や元寇などの危機を乗り越えたが、正慶2年/元弘3年(1333年)に滅亡した。
かつて「いいくに造ろう鎌倉幕府」で鎌倉幕府設立は建久3年(1192年)(源頼朝が征夷大将軍になった年)とされてきた。このゴロの良さは年代暗記の最高峰とまで呼ばれるゴロの良さであったが、頼朝の権力・統治機構はそれ以前から存続しているので実質的な成立は建久3年(1192年)より前の文治元年(1185年)とする新説が学校でも教えられるようになった。このため「いいはこ造ろう鎌倉幕府」と年代暗記法も変化した。しかし、『良い箱』とは段ボール箱でも造っていた業者なのか?と勘違いする生徒も多く、日本の歴史教育に大きな禍根を残した。
歴史[編集]
創設[編集]
元暦2年(1185年)3月の壇ノ浦の戦いで平氏政権を滅ぼした源頼朝は、同年にその平氏討伐の功績で朝廷から官位を受けた異母弟・源義経を討伐名目のため、諸国への守護設置許可や従前よりあった地頭の全国的な補任権と解任権を朝廷から獲得して、全国的な支配権を確立していった。そして文治5年(1189年)に奥州藤原氏の下に逃れていた義経を藤原泰衡に謀殺させた後、自ら軍勢を率いて奥州に攻め入り、泰衡を討ち取って奥州藤原氏を滅ぼした。これにより、日本には頼朝に武力で対抗できる独立勢力は皆無となった。
建久3年(1192年)3月に後白河法皇が崩御すると、頼朝は7月に後鳥羽天皇から征夷大将軍に任命された。これが鎌倉幕府の起源とされる。ただし実際に父義朝ゆかりの鎌倉を根拠に関東武士から鎌倉殿と尊称されたのはずっと以前のため、幕府の事実上の成立はもっと以前と見られる場合も多い。頼朝は独自の武家の機関を次々と作り、武家は朝廷から独立した存在としての機構を次々と作っていった。
なお、鎌倉幕府の起源については以下の説がある。
- 治承4年(1180年)末に頼朝の反乱軍が関東地方の大半を支配下に収めた時期。
- 寿永2年(1183年)10月、寿永二年十月宣旨により頼朝の東国支配権力が公認された時点。
- 文治元年(1185年)11月、文治勅許により鎌倉による守護・地頭の設置が認められた時点。
- 建久元年(1190年)11月、上洛していた源頼朝が右近衛大将に任命された時点。
- 建久3年(1192年)7月、頼朝が征夷大将軍に任命された時点。
政権争奪闘争[編集]
建久10年(1199年)1月に源頼朝が死去すると、跡を長男の源頼家が継承する。この頼家は家督継承時はまだ18歳と若く、しかも先例を無視して独断専行することが多かったため、たちまち有力御家人の反発を受け、頼朝の死からわずか4か月後の4月には頼家の親政は停止となり、有力御家人13名による13人の合議制が行なわれるようになった。
このように征夷大将軍が無力で統率にも欠けたため、たちまち有力御家人の間で政権争奪闘争が始まる。その最初の生贄となったのは頼朝の時代に側近として重用されていた梶原景時であり、景時は頼朝の後ろ盾をいいことに専横が目立ったため他の御家人の不満を買っており、頼朝の死を契機に千葉常胤・三浦義澄らの反発を受けて鎌倉を追放された。景時は正治2年(1200年)に上洛しようとしたが、幕府の追討を受けて一族もろとも敗死した(梶原景時の変)。
次に標的となったのは頼家の舅である比企能員である。建仁3年(1203年)に頼家が重病に倒れて再起不能と見られるようになったため後継者問題が起こり、この際に頼家の外祖父である北条時政は頼家の長男・源一幡と同母弟・源実朝にそれぞれ将軍の所領を分割相続させようと提案した。能員はこれが不満で頼家に時政の専横を訴え、頼家は能員に時政追討を命じる。しかし、時政は機先を制して能員を誘い出して謀殺し、さらに比企氏の一族を一幡もろとも皆殺しにした(比企能員の変)。頼家は時政を討伐しようとしたが、逆に時政によって将軍職を廃されて伊豆に幽閉され、第3代将軍には実朝が擁立された。翌年に頼家は時政によって暗殺された。
こうして将軍を廃するまでの権力を得た時政は将軍を補佐する執権に就任し、事実上の政権執行者となった。元久2年(1205年)6月、時政は娘婿・平賀朝雅と共謀して武蔵に大勢力を誇る有力御家人・畠山重忠を謀殺する(畠山重忠の乱)。しかし人望の厚かった重忠殺害に関しては他の有力御家人からの反発と北条氏一族からの不満を招いて時政は一気に孤立を深める。閏7月になると時政は後妻の牧の方と共謀して平賀朝雅を将軍に擁立するために実朝を暗殺しようとしたので、娘の北条政子や次男の北条義時からの反発を受けて変事は失敗に終わり、時政は伊豆に追放された(牧氏の変)。これにより、義時が執権の地位を新たに引き継いだ。
義時は執権の権力を強化するために幕府の体制を整備してゆく。このように鎌倉幕府内で政権闘争が行なわれている中で平氏残党の城長茂をはじめとする勢力に反乱を起こされたりもしているが、幕府はこれらを全て鎮圧している。建保元年(1213年)の和田合戦で義時は和田義盛をはじめとした和田氏の一族を滅ぼして侍所別当に就任し、鎌倉幕府の政治と軍事の頂点に立つ存在にまでなった。既に将軍・源実朝は義時の傀儡同然となっていたが、その実朝が建保7年(1219年)1月に甥の公暁により暗殺されてしまう。公暁もすぐに殺害され、こうして源氏将軍は断絶。執権北条氏は新たな鎌倉殿として皇族を立てることを試みるが、後鳥羽上皇から「皇族はダメだが、摂関家なら構わない」との回答があったため、頼朝の女系の大甥の子の藤原頼経を迎え、一時的な将軍不在という危機的状況を脱することになった。
承久の乱[編集]
一方で後鳥羽上皇は愛妾亀菊所有の荘園内の地頭の交代を求めて鎌倉側と対立し、実朝の死去を好機と見て承久3年(1221年)に諸国に北条義時追討の宣旨を発する。これに対し、鎌倉側は尼将軍政子の説得で関東の武士の結束を強め、執権義時は嫡子の北条泰時を総大将とした幕府軍を京朝廷に送り、幕府軍は朝廷軍を圧倒して1か月で京を制圧する。後鳥羽上皇・順徳上皇の2上皇は乱の責任を問われてそれぞれ遠国に配流され、藤原光親をはじめとした乱に関与した院近臣は悉く粛清された。
さらに義時は順徳上皇の皇子である仲恭天皇も廃し、後鳥羽上皇の血統と関係の無い後堀河天皇を擁立、僧籍の後高倉院を太上天皇に補して後見させた。この際、関与の低かった土御門上皇は自ら義時に申し出て配流されたが、後鳥羽、順徳両上皇と異なり、配流先でも厚遇され、後堀河天皇の次代の四条天皇が後嗣なく崩御すると、順徳上皇の子息の皇位継承権は完全に封じられ、土御門上皇の皇子の後嵯峨天皇が践祚することとなった。
乱後は旧上皇領などに新補地頭が置かれ、京の六波羅に朝廷や西国監視の幕府出先機関である六波羅探題を設置した。こうして、執権は公武の頂点に立つ最高権力者として君臨することになった。
1272年に後嵯峨天皇が後継を決めずに崩御すると、皇子の後深草天皇と亀山天皇のそれぞれの皇子が皇位継承を争い、幕府が調停して、双方の子孫が交互に皇位継承(両統迭立)することで決着し、幕府が皇位継承にも介入した結果となった。
元寇[編集]
1274年と1281年に、元軍が日本を襲ってきた。これを元寇という。日本が防衛に成功し収拾したが、勝利して敵の領土を奪ったわけでなく、かつ戦った武士は褒美としての土地を貰えないばかりか、北条氏が一族を西国の守護に配して中央集権を強めたので、幕府の北条氏体制への不満は高まった。
滅亡[編集]
1297年、幕府は永仁の徳政令を出し、経済を安定させようとしたが、もはや取り返しはつかず、幕府の中枢も内管領が事実上牛耳り、執権すら名目上の存在となっていた。
1333年、足利尊氏らの軍は稲村ヶ崎を回って幕府に攻め込んで滅ぼし、天皇親政の建武の新政に移行した。
鎌倉幕府の歴代征夷大将軍[編集]
- 初代 - 源頼朝(在任・1192年7月12日 - 1199年1月13日) - 源義朝の3男。53歳(源氏将軍)
- 2代 - 源頼家(在任・1202年7月23日 - 1203年9月7日) - 先代の長男。23歳(源氏将軍)
- 3代 - 源実朝(在任・1203年9月7日 - 1219年1月27日) - 先代の同母弟。28歳(源氏将軍)
- 4代 - 藤原頼経(在任・1226年1月27日 - 1244年4月28日) - 九条道家の子かつ初代頼朝の女系の大甥。39歳(摂家将軍)
- 5代 - 藤原頼嗣(在任・1244年4月28日 - 1252年2月20日) - 先代の子。18歳(摂家将軍)
- 6代 - 宗尊親王(在任・1252年4月1日 - 1266年7月2日) - 後嵯峨天皇の皇子。 33歳(皇族将軍)
- 7代 - 惟康親王(在任・1266年7月24日 - 1289年9月14日) - 先代の子。63歳(皇族将軍)
- 8代 - 久明親王(在任・1289年10月9日 - 1308年8月4日) - 後深草天皇の皇子。55歳(皇族将軍)
- 9代 - 守邦親王(在任・1308年ま8月10日 - 1333年5月22日) - 先代の子かつ女系で7代惟康の孫。33歳(皇族将軍)