1221年
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1221年(せんにひゃくにじゅういちねん)は、1200年代の21年目ことであり、日本の元号では承久3年である。日本の天皇は順徳天皇であったが4月に譲位して仲恭天皇が即位するも、その仲恭天皇も7月に譲位して後堀河天皇が即位する。鎌倉幕府の征夷大将軍は不在である。執権は第2代執権・北条義時である。承久の乱が発生した年である。
日本の出来事[編集]
- 3月 - 順徳天皇が石清水八幡宮や賀茂社に行幸する。
- 4月 - 順徳天皇が譲位し、仲恭天皇が即位する。順徳天皇が禁秘抄を撰する。
- 5月 - 後鳥羽上皇が北条義時追討の命令を出し、京都守護の伊賀光季を誅殺する(承久の乱の開始)。北条義時が北条泰時・北条時房らに西上を命じる。
- 6月 - 幕府軍が朝廷軍を破って入京を果たし、泰時と時房が六波羅に駐在する(六波羅探題の開始)。
- 7月 - 仲恭天皇が後堀河天皇に践祚する。後鳥羽上皇は幕命により隠岐に、順徳上皇は佐渡に流罪とされる。参議の藤原信能が美濃遠山荘で処刑。前権中納言の藤原光親が駿河加古坂で処刑(46歳)。前権中納言の藤原宗行が駿河藍沢で処刑(48歳)。参議の藤原範茂が相模関本の早河で処刑(37歳)。前権中納言源有雅が甲斐稲積荘小瀬で処刑(46歳)。雅成親王が但馬に流罪に処される。頼仁親王が備前児島に流罪に処される。
- 8月 - 三善康信(82歳)・加藤景廉(66歳)が死去。
- 9月 - 北条義時が承久の乱の戦功者に対する恩賞を沙汰する。賀茂神主の能久が鎮西に流罪に処される。
- 閏10月 - 北条義時が土御門上皇を土佐に流罪に処する。
- 月不明 - 藤原信実が後鳥羽上皇像を描く。年中行事秘抄や北野天神縁起(根本縁起)が完成する。