小笠原長時
小笠原 長時 おがさわら ながとき | |||||||||||||||||||||||||||||
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小笠原 長時(おがさわら ながとき)は、戦国時代の武将。信濃国の守護大名・戦国大名。信濃小笠原氏の当主。信濃林城主。小笠原長棟の長男。
生涯[編集]
小笠原氏は甲斐源氏の分流で、武田氏の遠戚にあたる。源清光の次男信義の子孫が武田晴信で、四男遠光の子孫が小笠原氏である。
父は小笠原長棟で嫡男。父の長棟は信濃小笠原家の全盛期を築き上げた名君だったが、長時はその才能を余り受け継いでいなかったらしい。天文9年(1541年)に父の隠居により家督を継ぐ(あるいは翌年の父の死去で継承)。天文11年(1542年)に甲斐の武田晴信が諏訪氏を攻めた際には、諏訪氏に援軍を送っている。以後も信濃経略を続ける晴信に対して藤沢頼親や高遠頼継らと結んで対抗するが、ほとんど敗退した。
天文17年(1548年)に上田原の戦いで晴信が村上義清に大敗すると、武田方の動揺を見て諏訪へ侵攻する。当初は優勢だったが、長時はもともと武勇こそ優れていたが統率力や求心力が欠如していた人物だったらしく、侵攻の途上で傘下にあった仁科氏と作戦をめぐって対立する。さらに家臣団の中からも武田晴信の調略に応じる者が相次ぐなどして小笠原軍は内部から崩壊。結果として塩尻峠の戦いで武田晴信に大敗を喫して、居城の林城に逃げ帰った。しかし、最早挽回は不可能であり、2年後の天文19年(1550年)には居城の林城も晴信に攻められて落城し、長時は弟の信定を頼って南信の鈴岡城に逃亡。しばらくは各地で武田方に対してゲリラ活動をしていたが、やがて晴信の信濃における優位が確立すると同族の三好長慶を頼って上洛し、その厚意で摂津に居住した。
しかし長慶が死去し、永禄11年(1568年)には織田信長が足利義昭を奉じて上洛したことから、長時は摂津を離れて越後の上杉輝虎を頼った。天正6年(1578年)3月に謙信も死去し、会津黒川城主の蘆名盛氏を頼って庇護された。
この間、長時の3男・貞慶が織田信長・徳川家康に仕えて旧領回復に奔走。既に宿敵の信玄は没して甲斐武田家も天正10年(1582年)3月に武田征伐で滅んだ。貞慶は本能寺の変を経て家康から旧領復帰を許され、その貞慶から長時は招請されて旧領への帰国準備を始めていたが、その最中に家臣の手にかかって暗殺されたという。享年70。
小笠原長時が登場する作品[編集]
- 小説
- テレビドラマ