小山田信茂

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小山田 信茂(おやまだ のぶしげ、天文9年(1540年[1]? - 天正10年3月24日[1]1582年4月16日))は、戦国時代武将甲斐武田家家臣。父は小山田信有[1]。兄は小山田信有[1]。子に香具姫内藤忠興室)ほか。幼名は藤乙丸[1]。官途は左兵衛尉[1]。後に左衛門大夫[1]。受領名は出羽[1]

生涯[編集]

永禄8年(1565年)に兄の信有が早世したため、家督を継承して小山田家の当主となる[1]武田信玄に仕えて武蔵出兵など数々の軍事活動に参加した[1]武田勝頼の時代には上杉景勝との和睦・同盟交渉を担当する[1]。天正10年(1582年)の武田征伐では落ち延びる勝頼一行を本拠の郡内に迎え入れる予定であったが、突如離反して勝頼を追い返した[1]。このため勝頼自害後は織田信長に降伏しようとしたが、信長は裏切り者として受け入れず[注 1]、甲府善光寺において一族とともに処刑された[1]。享年43か。法名は武山長文居士[1]

この処刑により、小山田宗家は滅亡したが、傍系の小山田茂誠は生き延び、岳父となった真田昌幸に仕えている。

脚注[編集]

  1. 関ヶ原の戦いでも、小川祐忠赤座直保の東軍の寝返りを日和見として改易した事例がある。
出典
  1. a b c d e f g h i j k l m n 柴辻俊六・平山優 『武田勝頼のすべて』新人物往来社、2007年、P225

参考文献[編集]

  • 柴辻俊六平山優 『武田勝頼のすべて』(新人物往来社、2007年) ISBN 978-4-404-03424-3