三枝昌貞
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三枝 昌貞(さいぐさ まささだ、天文6年[1](1537年) - 天正3年5月21日[1](1575年6月29日))は、戦国時代の武将。甲斐武田家の家臣。系譜類では守友(もりとも)であり、この諱は小説やゲーム類で有名であるが、これは江戸時代の三枝氏が通字を「守」としてきたことからの創作と考えられている[1]。
生涯[編集]
父は三枝虎吉[1]。仮名は惣四郎(宗四郎)[1]。官途は勘解由左衛門尉[1]。弟に守義、昌吉、守光。子に守吉[2]。父の虎吉の隠居により跡を継いで信玄に仕え、信玄の奥近習6人衆の1人として出仕し、川中島の戦いでは旗本組に属して参戦した。家督相続時点では騎馬30騎、足軽70人の支配頭となって勘解由と改め、左衛門尉を称した。
山県昌景に目をかけられて山県姓を授与され、山県善右衛門尉を名乗っている[1]。武田信玄からは次代の甲斐武田氏を支える武将として期待されていたようで、ある時昌貞に怠慢がありそれを戒められている[1]が処罰はされていない。『甲陽軍鑑』では真田昌幸や曾根昌世らと行動を共にする武将として描かれている。山県昌景はその剛勇を称賛して、吉光の名刀を与えている。小田原城攻めや三増峠の戦いで戦功を立て、駿河国花沢城の戦いでは一番槍の功名を挙げた。三方ヶ原の戦いでも活躍し、信玄からは27歳の時点で騎馬56騎を与えられ、侍大将の列に加えられている。
信玄没後は勝頼に仕え、遠江高天神城攻めに従軍する[2]。天正3年(1575年)5月21日、長篠の戦いで武田信実の副将として鳶ノ巣山城に籠城するが、織田信長の密命を受けた酒井忠次の奇襲を受けて、奮戦もむなしく戦死した[2]。享年38。
法名は常見禅定門[2]。
息子の守吉は幼少のため、家督は実弟の昌吉が相続した[2]。
脚注[編集]
参考文献[編集]