韮崎市
概要[編集]
この市は甲斐の守護大名として君臨した甲斐武田氏発祥の地である。そのため、武田八幡宮や願成寺、宗泉院など武田氏とゆかりの深い寺院が多く存在する。
天正3年(1575年)5月の長篠の戦いで織田信長・徳川家康の連合軍に大敗を喫した武田勝頼は、やがて織田・徳川連合軍が甲斐に侵攻してくることを想定して、韮崎に新しい居城である新府城の築城を開始した。この城は当時は武田家の家臣であった真田昌幸を普請奉行にして進められたが、天正10年(1582年)2月から織田信長・徳川家康の連合軍による武田征伐が開始されると、武田家臣団は次々と連合軍に内応する自落を繰り返し、『信長公記』によると勝頼は3月3日に新府城での抗戦を断念し、家臣の小山田信茂の本拠地である郡内を目指して落ち延びようとしたが『甲陽軍鑑』によると信茂により笹子峠を封鎖されて勝頼は行き場を失い『甲乱記』によると天目山に逃げ込んだ勝頼を織田家臣の滝川一益の軍勢が攻撃し、3月11日に勝頼は嫡男の武田信勝や正室の桂林院殿ら残った一族・家臣と共に自殺して甲斐武田氏は滅亡したという。
江戸時代になると、甲州街道の宿場町として繁栄した。富士川水運の拠点となって信濃・甲斐・駿河の物資の中継地になったこともあり、現在も峡北地帯の交通の中心地のうえ、峡北穀倉地帯としての役割を果たしている。
昭和29年(1954年)10月、北巨摩郡韮崎町・穂坂村・藤井村・清哲村・神山村・大草村・竜岡村・旭村・中田村・穴山村・円野村の1町10村が合併して市制を施行したことにより韮崎市が誕生した。
この市は釜無川を挟んで西は南アルプスの鳳凰三山から、東は茅ヶ岳山麓の山地に及び、山麓や山裾の丘陵地には畑が多く存在し、桃や葡萄の栽培が行なわれている。市の中心地である韮崎は釜無川と塩川の合流点に位置し、古くから甲州街道・佐久往還・駿信往還の分岐点、あるいは富士川水運の終点として大いに交通の重要地として賑わい、現在でも八ヶ岳山地の流通センターの役割を果たしている。北東部は秩父多摩国立公園に指定されており、北は八ヶ岳中信高原国定公園に、西は南アルプス国立公園に指定されて、いずれも大自然の美しさを味わえる景勝地となっている。
青木・御座石などの温泉もあり、レンゲツツジの群落で知られる甘利山や御座石温泉の近くにあるシラカバ林なども有名である。