内藤昌豊

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内藤 昌豊(ないとう まさとよ、大永2年(1522年) - 天正3年5月21日1575年6月29日))は、戦国時代武将武田氏の家臣で武田四天王の一人。諱は昌秀(まさひで)とも言われている。

生涯[編集]

父は工藤虎豊で次男。元の名は工藤祐長。通称は源左衛門。官途は修理亮。養子昌月

父の工藤虎豊は武田信虎に仕えていたが、信虎の怒りに触れて処刑されたため、兄の工藤長門守と共に甲斐国から出奔して流浪した。信虎が武田晴信によって追放された後の天文15年(1546年)に召し出されて武田家臣団に再度列し、50騎持の侍大将に任命された。長尾景虎との川中島の戦いに参加して小荷駄隊の指揮官として妻女山攻撃の別動隊に参加したのをはじめ、永禄9年(1566年)の上野国箕輪城攻めなどで戦功を挙げて、300騎持の大将に昇進。永禄11年(1568年)には甲斐国の名族である内藤氏の名跡を継承して修理亮を名乗ることを許され、同時に西上野の支配も任されている。元亀3年(1572年)の信玄の西上作戦にも参加し、三方ヶ原の戦いでも軍功を挙げた。

元亀4年(1573年)4月に信玄が亡くなると、後継者の武田勝頼に仕えて遠江国高天神城攻めなどに参戦して武功を立てる。天正2年(1575年)5月21日、長篠の戦いにおいて織田信長徳川家康連合軍と対峙した際、戦況の不利を判断して撤退を進言したが勝頼に容れられることはなく、昌豊は出撃して徳川軍と戦って壮烈な戦死を遂げた。54歳没。

人物像[編集]

甲陽軍鑑』において昌豊は信玄配下の名将として多くの逸話が挙げられている。昌豊は信玄の主な合戦の大半に参加して多くの武功を立てたが、信玄からは一通も感状が与えられなかった。これについて同書によると信玄は「修理亮ほどの弓取りの名人ならば、常人を抜く働きがあってしかるべし」と語ったと言われ、昌豊も「いたずらに個人の手柄にこだわるなどくだらない」と大人物のように平然と語ったと言われており、信玄と昌豊の厚い信頼関係を物語るエピソードとなっている。

また、これも『甲陽軍鑑』であるが、同じ武田四天王の山県昌景が昌豊の名将ぶりを「古典厩信繁、内藤昌豊こそは毎事相整う真の副将なり」と称賛したとしている。これは昌豊が「武田軍の副将」として讃えられていたことを意味している。

関連作品[編集]