飯富虎昌
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飯富 虎昌(おぶ とらまさ、永正11年(1514年)[1]? - 永禄8年10月15日(1565年11月7日))は、戦国時代の武将。甲斐武田家の家臣。実弟に山県昌景がいる[2]。武勇に優れ、武田二十四将の一人として数えられる。官途の兵部少輔[1]から飯富 兵部(おぶ ひょうぶ)と通称された。父は飯富道悦とされるが確証はない[2]。諱の虎昌に関しても武田義信の側近が連署した「二宮祭礼帳」に見当たらないため、疑問の余地もある[2]。
生涯[編集]
譜代家老衆で同心衆300騎持の侍大将として武田信虎に仕えたが[1]、享禄4年(1531年)1月21日に甲斐国人である今井信元や栗原兵庫らと共に反乱を起こして御岳に立て籠もる。さらに信濃の諏訪頼満の支援も受けたが、3月12日に行なわれた河原辺合戦で信虎に敗れて反乱軍は壊滅し(『勝山記』『諏訪神幸記』『諏訪神使御領之日記』)、虎昌は信虎に降伏した。後に信虎に赦免されたものの、天文10年(1541年)に行なわれた信虎追放、晴信擁立では板垣信方と共に主導役を果たした[1][2]。
晴信(信玄)時代では信濃佐久郡支配を任され[2]、先代からの重鎮として板垣ら戦死後は武田軍の中心人物の一人として信濃経略[1]、長尾景虎らとの戦いで功を立てた。永禄5年(1562年)頃から信玄の嫡子・義信の守役に任命されたが[1]、駿河の今川氏真との関係をめぐって信玄と義信が対立すると虎昌は義信方と見られることになる[2]。そして永禄8年(1565年)10月15日、義信の謀反に連座したとして処断された[3]。享年52[1]。
戒名は光山道円禅定門[3]。
飯富家は断絶とされ、その同心衆は弟の昌景をはじめ、板垣信安、跡部勝資、武田信廉らに分配された[1]。