足利義教

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足利 義教(あしかが よしのり、応永元年6月13日1394年7月11日) - 嘉吉元年6月24日1441年7月12日))は、室町幕府の第6代将軍(在職:永享元年(1429年 - 嘉吉元年(1441年))。

第3代将軍・足利義満の子。母は側室藤原慶子で、第4代将軍・足利義持の同母弟。僧侶時代は義円(ぎえん、義圓)、還俗直後は義宣(よしのぶ)と名乗った。父は第3代将軍・足利義満。母は藤原慶子。兄弟に義持義嗣義昭法尊ら多数。子に義勝政知義政義視ほか実子、猶子多数。

生涯[編集]

僧侶・義円として[編集]

父は第3代将軍・足利義満であるが、兄に第4代将軍となる義持、さらに義満に溺愛された義嗣などがいたため、生まれた時点で義教に家督相続、将軍職相続の可能性は皆無であった。このため、嫡子や一部を除いて御家騒動を避けるために出家させて寺に入れるという足利氏歴代の慣習により、義教も応永10年(1403年)に天台宗の寺院である青蓮院に入ることになる。寺に入ってから5年後、出家して義円という法名を与えられた。この間、父の義満は死去し、兄の義持が将軍になっていた。

応永26年(1419年)、26歳の若さで天台宗総本山の比叡山延暦寺の住職、つまりトップである天台座主に就任する。義円は当時の記録によると「天台開闢以来の逸材」と称されて将来を嘱望され、さらに頭が非常に切れる聡明な人物であったと評されている。

第6代将軍への道[編集]

このままなら仏道の道を究めるはずだった義円であるが、応永32年(1425年)に運命が変わりだした。この年に義持の跡を継いで第5代将軍となっていた甥の足利義量が病死する。義量には子供が無く、義持にも他に適当な子女が無かったことから、後継者問題が発生しだした。しばらくは前将軍の義持が幕政を取り仕切ることで運営されたが、その義持も応永35年(1428年)1月に病死した。義持は死の直前、後継者の指名を求める管領畠山満家ら重臣の求めを拒否して「自らの死後に籤引きで決めるように」と遺命したため、義持の死後、第6代将軍は重臣らによって石清水八幡宮の神前での籤引きによって決定されることになった。

候補者は義持の4人の弟、すなわち義円、義昭梶井義承相国寺永隆らであった。この中で籤で選ばれたのは義円であった。

重臣らが籤の結果を受けて義円の説得に向かったが、この際に義円は喜ばず、「種々に御辞退」(たびたび辞退した)とある(『満済准后日記』)。しかし重臣は何度も義円に将軍職就任を求め、義円はならば管領や重臣らに「将軍抜きで勝手な行動をしない」ことを約束した誓約書を差し出すならばということを条件にして、将軍職に就任することに同意したという。この際に名を義円から義宣(よしのぶ)と改名した。

ところが、還俗したばかりで髪がまだ伸びていなかった義宣に対して、朝廷は難色を示した。武家の棟梁である将軍になるためには、髻を結ってきちんと元服を迎える必要があるのだが、義宣の場合は還俗したばかりでそれもできなかった。前例として元服する前に将軍に就任した鎌倉幕府第3代将軍・源実朝がいるのだが、この実朝の場合は最後に暗殺されていることから、縁起が悪いとして髪が伸びる1年後まで将軍職就任は延期ということになり、義宣は足利家の家督相続はしても、将軍職をセットで受け継ぐことが延期される異例の事態となったのである。

そして翌年の正長2年(1429年)3月に義宣は元服して、36歳で正式に第6代将軍に就任した。なお、この際に義宣の名を「世(を)忍ぶ」と読めると世間から噂されたことから、義教と改名した。この際の名前の候補として、義教以外に「義繁(よししげ)」、「尊国(たかくに)」などがあったといわれ、尊国は言うまでもなく曾祖父である足利尊氏に先例を求めた可能性が高い。

将軍親政と恐怖政治[編集]

義教は、兄の義持や甥の義量の時代に管領や幕府重臣の介入などで弱体化した将軍権力を、父の義満の時代のように強力なものにすることを目指した。つまり、義満の時代への回帰である。そのため、将軍直属の軍事力である奉公衆を強化したり、義持によって中止された勘合貿易を復活させたりと父の時代を目指した将軍権力の強化を目指した。

しかしそのためのやり方が余りに苛烈すぎた。義教は自らに逆らう者、仕事ができない者などは決して許さなかった。記録にあるものを挙げておこう。

  • 正長から永享に改元される際、後小松上皇宝暦(ほうりゃく)を次の元号に推したのに対し、義教は「宝暦(ほうりゃく)は謀略に通じる」として反対し、永享を推して採用させた。
  • 有力守護大名一色義貫が騎馬のイベント時の席順に抗議して、義教の右大将就任式をボイコットしたので、義教は義貫を処罰しようとした(この際は周囲の重臣の取り成しで何とか許されているが、義貫は後年に殺されている)。
  • 永享元年(1429年)に義教が春日大社に参拝する際、公卿東坊城益長が将軍を供奉するメンバーに選ばれなかったので、せめて将軍の行列をその目で見たいとこっそり見物していたことが義教に知られて、出仕停止・謹慎処分となる。
  • 永享2年(1430年)の直衣始の儀式の際に義教に「一咲」(ニコッとした)した東坊城益長に対して、無礼であるとして義教が「腹立」して所領没収の上で謹慎処分となる。
  • 永享5年(1433年)、当時京都で流行していた闘鶏で多くの見物人が集まっていたが、そのために義教の行列の通過が非常に遅れたことに「御腹立」して、闘鶏を禁止した上に京都における鶏を追放するように命令を出した。さらに腹立した見物人が集まっていたのが公卿の一条兼良の屋敷前だったため、一条も譴責処分となった。
  • 永享5年(1433年)、室町屋敷で新築工事が行なわれたが、その際に幕府重臣の黒田氏から献上された1本の梅の枝が途中で折れてしまう事件があり、これを知った義教は「以ての外、腹立」として庭師3人を蟄居、黒田氏の家臣3名を追放、さらに2人を切腹させるという処分を下した。
  • 永享6年(1434年)、義教が大切にしていた舞台俳優の音阿弥に叔父の世阿弥が能の奥義を渡さなかった為怒り、それだけで島流しの刑にした。
  • 永享7年(1435年)に義教が伊勢神宮に向かう際に食した料理が「悪く調め」(料理がまずい)だったため、料理人を追放し、さらにそれでも怒りが収まらずに後日に呼び出して斬首。さらに2年後にも同じ理由で別の料理人が流罪に、さらに家臣が2人殺され、1人は切腹の処分となった。
  • 義教の古巣である比叡山延暦寺は、かつての座主が将軍になっても幕府を糾弾する強訴を続けたことから、義教は激怒して比叡山を大軍で包囲した。延暦寺はさすがに驚いて義教に謝罪して降伏しようとしたが、義教は完全に拒否。幕府重臣の仲介もあったのでさすがに義教も受け入れて和睦となったが、その際に呼び出した延暦寺の使者4名を斬首する。これに抗議した延暦寺は根本中堂に立て籠もって火を放ち、24名の僧侶が焼身自殺を遂げた。
  • 永享7年(1435年)、義教が比叡山延暦寺を焼き討ちしたことを噂することは厳禁とされていたにも関わらず、ある商人が京都市街でそれを噂していたと知り激怒してすぐに逮捕し斬首した。
  • 父の足利義満の時代から、義満の子孫が受け継ぐ京都の足利将軍家と、義満の叔父である基氏の子孫が受け継ぐ鎌倉公方家は対立していた。その対立は義教の時代には鎌倉公方・足利持氏との間で頂点に達し[1]、持氏が関東管領上杉憲実と対立したことを好機と見て、永享10年(1438年)に義教は鎌倉公方に対して討伐軍を送り出した(永享の乱)。この永享の乱で持氏は大敗して義教に剃髪して出家するので一族の助命を願い出るが、義教は許さずに自害に追い込み、一族の多くも殺した。さらに2年後に持氏の遺児である春王丸安王丸結城氏朝に担がれて挙兵した際にも(結城合戦)、関東に討伐軍を派遣して氏朝を殺し、さらに春王丸・安王丸を京都に護送する途中で家臣に命じて殺させた。

このような義教の恐怖政治に対して、勿論反対する者も存在した。畠山満家、満済などがそれであるが、この両者が死去すると義教の恐怖政治は留まるところを知らなくなった。日蓮宗の僧侶・日親が義教を諌めようとした際、義教は激怒して獄中にぶち込むと、そこで灼熱の鍋を被らせる拷問を行ない、鍋は焦げてへばりつき、日親は生涯鍋をかぶり続けることになり、「鍋かむり日親」とあだ名されるようになった。さらに舌を切り落としたという話まで伝わっている。

こうした徹底した恐怖政治で義教は全てを抑えつけていった。義教の恐怖政治を「万人恐怖、言ふ莫れ言ふ莫れ」「薄氷を踏む時節、恐るべし恐るべし」と評している(『看聞日記』)。

嘉吉の乱、そして最期[編集]

義教は守護大名の御家騒動にも積極的に介入し、その大名の一族の中で自らに従順な姿勢をとる人物を新たな当主に据えることを方針としていた。そのようなやり方に反発した前述の恨みを買っていた一色義貫、並びに土岐持頼らは、義教によって殺害されている。

そして『公名日記』によると、次に義教が標的としていたのが播磨国など3か国を支配していた守護の赤松満祐であったと噂されたという。満祐は義持の時代にも危うく取り潰される寸前にまで至っており、噂は真実味があった。

満祐は嫡子教康、さらに弟の則繁ら一族家臣と計画を練り、義教を自らの屋敷に招くことにした。理由は結城合戦の戦勝祝いに加えて、「当年の鴨の子、沢山に出来、水を泳ぎける躰、御目に懸くべし」(たくさん生まれた鴨の子が泳ぐ姿が面白いので、見て頂きたいのです)という名目であった。これに対して義教は応じ、嘉吉元年(1441年)6月24日に赤松家屋敷で開催された宴の席で、義教は突如、武装した赤松家の兵士に襲撃され、義教自身は赤松家の家臣・安積行秀によって斬殺され、源実朝以来の将軍暗殺で最後を迎えた。享年48(満47歳没・嘉吉の乱)。

義教を討ち取った満祐ら赤松一族は、京都の屋敷に火をかけると領国の播磨に戻って幕府に対して反乱を起こしたが、幕府側は義教の嫡子・義勝を新たな当主に据えて山名宗全を主力とした討伐軍を播磨に差し向け、赤松一族もほぼ殺されることになった。

人物像[編集]

苛烈な性格で、比叡山延暦寺を焼き討ちにする原因を作り出したことから、彼の死後から130年後に同じように延暦寺を焼き討ちにした織田信長に似ていると見られており、義教は信長の前身のように言われることが多い。

ただ、苛烈な性格の持ち主だが、ある時に処罰しようとして周囲から止められた際、「関東、鎮西(九州)へ聞こえもしかるべからず」(評判が悪くなる)と発言したと言われており、それでも止めようとした家臣に対して「(自分の将軍としての)御威勢も失わざる事か」と家臣に詰問し、さらに「さだめて口遊あらんか」(絶対に変な噂は立たないな?)と重ねて問い質したりするなど、意外にも世の中の噂や世間体をとても気にする人物だったようである。

系譜[編集]

永享3年12月に義教の下に上がるも、永享9年11月、密通事件により離縁

義教の偏諱を受けた人物[編集]

義宣時代

(※該当者なし)

義教時代(*「教」は「敎」とも表記する。)

武家
「義」の字
「教」の字


同時代の世界の帝王[編集]

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. 『続群書類従』や紫波郡の伝承による。詳しくは当該項目を参照のこと。

出典[編集]

  1. 持氏は籤引きで選ばれて僧侶から還俗した義教を「籤引き将軍」「還俗将軍」と呼んで馬鹿にしたり、本来なら鎌倉公方の嫡子は京都の将軍家からの偏諱を受けないといけないのだがそれを無視したり、正長から永享の元号使用を無視したりした。

足利義教が登場する作品[編集]

小説
  • 安部龍太郎『彷徨える帝』(新潮社/新潮文庫/角川文庫、1994年)
  • 山田風太郎「室町の大予言」(文藝春秋/文春文庫『室町少年倶楽部』収録、1995年)
  • 朝松健『荒塚』—異形コレクション第22巻【恐怖症】(光文社、2002年)
  • 朝松健『若狭殿耳始末』—異形コレクション第35巻【闇電話】(光文社、2006年)
  • 朝松健『一休魔仏行』(カッパ・ノベルス、2004年)
  • 岡田秀文『魔将軍―室町の改革児、足利義教の生涯』(双葉社、2006年) ISBN 4575235431
漫画
テレビドラマ
日本史における歴代将軍一覧
(幕府なし)(坂上家) 1坂上田村麻呂
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室町幕府(足利家) 1足利尊氏 / 2足利義詮 / 3足利義満 / 4足利義持 / 5足利義量 / 6足利義教 / 7足利義勝 / 8足利義政 / 9足利義尚 / 10足利義稙(足利義材) / 11足利義澄 / 12足利義晴 / 13足利義輝 / 14足利義栄 / 15足利義昭
江戸幕府(徳川家) 1徳川家康 / 2徳川秀忠 / 3徳川家光 / 4徳川家綱 / 5徳川綱吉 / 6徳川家宣 / 7徳川家継 / 8徳川吉宗 / 9徳川家重 / 10徳川家治 / 11徳川家斉 / 12徳川家慶 / 13徳川家定 / 14徳川家茂 / 15徳川慶喜