小山田信有 (越中守)

出典: 謎の百科事典もどき『エンペディア(Enpedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動

小山田 信有(おやまだ のぶあり、? - 天文10年2月12日[1]1541年3月9日))は、戦国時代武将武田氏家臣。父は小山田弥太郎[1]。子に信有正室武田信虎の妹[1]継室大井信達の娘(信虎正室の大井夫人の妹)[1]。受領名は越中[1]

生涯[編集]

永正5年(1508年)12月に郡内合戦で父が戦死したため、家督を継いだ[1]。しかし翌年の秋から武田信虎の侵攻を受け、永正7年(1510年)春に和睦して以後は信虎の家臣となる[1]。この和睦の際に信虎の妹を正室に迎えている[1]。この正室は天文元年(1532年)に死去している[1]

永正17年(1520年)に郡内岩殿山円通寺再興を行なっている[1]。信虎からは一族に準じる存在として有力な一翼を担い、その動員令を受けて甲斐国外にも出陣している[1]。当初は外様であったが、縁戚と活躍により武田家の譜代家老衆に列せられている[1]。天文10年(1541年)2月12日に死去[1]。家督は同姓同名の息子・出羽守信有が継いだ。

独立性が強く「都留郡守護」とまで称している[1]

脚注[編集]

  1. a b c d e f g h i j k l m n 柴辻俊六 編『武田信虎のすべて』新人物往来社、2007年、p.195

参考文献[編集]

  • 柴辻俊六 編『武田信虎のすべて』(新人物往来社、2007年) ISBN 978-4-404-03423-6