曽根昌世
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曽根 昌世(そね まさよ、生没年不詳)は戦国時代の武将。武田二十四将の1人に数えられることもある。奥近習六人衆の一人。甲斐武田家の家臣。後に徳川家康を経て蒲生氏郷に仕えた。仮名は孫次郎[1]。官途は内匠助・右近助[1]。受領名は下野守[1]。父は武田家譜代家老の曽根虎長で嫡子。子に周防守。初名は勝長・長成[1]。
生涯[編集]
最初武田信玄の奥近習を務め、永禄年間末期に足軽大将に任命された[1]。一時武田家を離れて駿河に逃れたが、永禄12年(1569年)に帰参した[1]。三増峠の戦いで戦功を挙げたため、駿河興国寺城代に任命された[1]。武田家滅亡後は徳川家康に仕え、家康が旧武田領を経略する際に大きな貢献をしたが[1]、天正18年(1590年)の小田原征伐後に家康から離れて蒲生氏郷に仕えた[2]。
真田昌幸と共に信玄から諸国の動静を探る物見(斥候)として、その機敏な働きぶりから「我が両目」と称賛されたといわれている。また、甲州流の軍学や築城術にも優れており、氏郷の時代にその居城である会津若松城の築城で貢献したという。