穴山勝千代
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穴山 勝千代(あなやま かつちよ、元亀3年(1572年)[1] - 天正15年6月7日[1](1587年7月12日))は、安土桃山時代の武将。穴山信君の嫡子で、武田信玄の外孫に当たる。穴山家の実質的な最後の当主。甲斐武田家に仕えた後、織田家、徳川家の家臣として仕えた。
生涯[編集]
父は穴山信君[1]。母は武田信玄の娘の見性院[1]。天正7年(1579年)の2月と12月に3点の朱印状を発給している(『鈴木文書』)。このため8歳という幼少期から父の代行的な役割を果たしているものと推測されている[1]。
天正8年(1580年)末に父が出家した際に家督を譲られて穴山家の当主となる[1]。以後に見られる「栄」の朱印状の発給者はこの勝千代と推測されている[1]。天正10年(1582年)6月に父が京都で横死すると、事実上の当主となる[1]。11月に徳川家康から甲斐河内領と駿河江尻領を安堵された[1]。しかしこれらの領地には家康の譜代家臣が在番するなど[1]、事実上家康の支配下に置かれていた。
勝千代は父以来の重臣に補佐されながら領内の政務を展開したと見られるが、天正15年(1587年)6月7日に16歳の若さで早世した[1]。このため穴山家の血統は断絶し、その名跡は徳川家康の5男・万千代(後の武田信吉)に受け継がれた[1]。
法名は松源院殿勝岳守公大禅定門[1]。
脚注[編集]
参考文献[編集]
- 柴辻俊六 編 『武田信玄大事典』(新人物往来社、2000年)ISBN 4-404-02874-1