山県昌景

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山県 昌景(やまがた まさかげ、? - 天正3年5月21日1575年6月29日))は、戦国時代武将武田氏家臣馬場信春内藤昌豊高坂昌信と並ぶ武田四天王のひとりとして数えられる。姓は山縣とも書かれる。なお、山県の名跡を継ぐ前には飯富(おぶ)を称していた。通称は源四郎(げんしろう)。

略歴[編集]

父は不詳。兄に飯富虎昌。子に山県昌満がいる。ただし血縁関係についても不明な点が多く、虎昌とは兄弟、あるいは叔父と甥とする説などがあり、詳しくはわからない。

最初は武田晴信(武田信玄)に仕え、天文19年(1550年)に使衆に取り立てられて晴信の側近に取り立てられる。武功が目覚ましく「源四郎の赴くところ、敵なし」とまで言われるほど勇敢で晴信の信任を得た。そのため、板垣信憲が晴信の命令により改易されると、その同心衆150騎は昌景に与えられて侍大将、さらに譜代家老衆に列するなど一気に武田家中枢の要職を担うことになった。

弘治2年(1556年)10月に信濃国伊那郡の国衆・小笠原氏下條氏松岡氏などを相備衆として付けられ、伊那御先衆の2の手を務めることを晴信から命じられた。永禄6年(1563年)より官途名として三郎右衛尉を称する。

永禄8年(1565年)に義信事件が勃発すると、昌景は虎昌が武田義信と共謀して謀反を計画していると信玄に密告したという(『甲陽軍鑑』)。この密告により謀反は未然に防がれ、義信は捕縛されて東光寺に幽閉されて廃嫡、後に自殺し、虎昌は切腹を命じられた。昌景は信玄に計画を密告したため連座を免れただけではなく、信玄から謀反人の姓のままでは肩身が狭いであろうとして甲斐武田家の譜代の重臣である山県氏の名跡の継承を許されて山県三郎右兵衛尉昌景と称するようになった。文書などでは少なくとも永禄9年(1566年)8月には山県姓を称していたことが確認できる(『一蓮寺文書』)。

以後は信玄の側近・重臣として朱印状の奏者を務め、永禄10年(1568年)末に信玄が今川氏真との同盟を破棄して駿河侵攻を開始するとこれに従軍し、その武功により永禄12年(1569年)には駿河国江尻城代に任命されて政治面・軍事面における武田家の重要人物になった。この頃には同心衆も300騎を数え、さらに駿河・三河国の国衆の多くが相備衆として付けられているため、いかに信玄に重用されていたかがわかる。

以後も信玄に従い多くの合戦に参加。元亀3年(1572年)の信玄による西上作戦においても信玄とは別に一軍を与えられて三河に侵攻し、各地で徳川家康の諸城を落としている。同年12月の三方ヶ原の戦いにも参戦し、家康から「山県、恐ろしき敵ぞ」と言われるほど奮戦したと言われている。

しかし元亀4年(1573年)4月、信玄は西上作戦の途上で病死する。この際、昌景は信玄から「山県、明日は瀬田に我が武田の旗を立てよ」と遺言されたという。ただしこれは『甲陽軍鑑』によるもので、しかも病気で苦しむ信玄が譫言のように述べたといわれている。

信玄の死後は4男で武田家の家督を継承した武田勝頼に仕え、昌景は馬場や内藤、高坂らと共に勝頼の補佐を務める。天正2年(1574年)の東美濃国での織田信長との戦い(明知城の戦い)や徳川家康との三河での戦いで参戦して武功を立てた。特に東美濃の戦いでは6万を数える織田軍に対してわずか6000で山岳の地形を利用して勝利したとまで言われている。

しかし次第に勝頼に前代の重臣として疎まれだしたとされ、また勝頼側近である跡部勝資長坂虎房らの台頭もあり、勝頼との間に齟齬を来していたとされている。天正3年(1575年)5月、先年に武田氏を裏切って家康に付いていた奥平信昌が守る長篠城を攻めるが、信昌の善戦で城は落とせず、その間に織田信長が大軍を引き連れて後詰に現れた。昌景は馬場・内藤ら多くの重臣と共に今回の合戦は不利として決戦直前の軍議において撤退を進言していたと『甲陽軍鑑』にはある。しかし勝頼は昌景の意見を退けて決戦を選択し、また勝頼の側近の跡部勝資の主張もあって決戦することに決定したという。昌景はこの決戦で敗れること、死を覚悟していたとされ、事前に多くの重臣と別れの盃を交わしたともされる。そして5月21日、長篠の戦いにおいて戦死した。

家督は嫡子の昌満が継承した。法名は休山賢好禅定門。

系譜[編集]

  • 兄弟
    • 飯富虎昌 - 叔父説あり
    • 山県昌景
  • 息子
    • 山県昌満 - 源四郎将監、上杉景勝の家臣、藤沢山県家の祖
    • 山県昌久 - 長篠の戦いの後、母方の実家の尾張に移り上村源四郎と称する。源四郎の子の笹治大膳こと上村昌時(笹治正時)は結城秀康に仕え、家老として3600石を領する。笹治大膳家の祖。子孫は福井藩家老職家として最大時で1万石を与えられ笹治姓を称し、十代後に山県に復姓。
    • 山県昌重 - 三郎右衛門、塙直之の附家老、大坂夏の陣で戦死
    • 山県信継 - 三郎兵衛。のちに徳川家康に仕え川浦村に500石を賜り、川浦口留守番を命ぜられる。子孫は、山県館(川浦温泉の一軒宿)を経営し、武田家旧温会会長を務める。
    • (三枝昌貞室)
    • (相木昌朝室)
    • (横田尹松室)
  • 養子

関連作品[編集]

映画・テレビドラマ

※「演」は演じた役者名。

舞台
小説
  • 小川由秋『山県昌景 - 武田軍団最強の「赤備え」を率いた猛将』(PHP文庫)

外部リンク[編集]