足利尊氏

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足利尊氏像(浄土寺蔵).jpg
足利尊氏像とされていたもの(実際は高師直像とされる).jpg

足利 尊氏(あしかが たかうじ、嘉元3年7月27日1305年8月18日) - 正平13年/延文3年4月30日1358年6月7日))は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将室町幕府の初代征夷大将軍(在職:暦応元年/延元3年(1338年) - 正平13年/延文3年4月30日(1358年6月7日))。父は足利貞氏[1]。母は上杉頼重の娘・上杉清子

通称は又太郎。初名は高氏。兄に高義。弟に直義。子に竹若丸直冬義詮基氏鶴王ら。正室北条守時の妹・赤橋登子。側室は加古基氏の娘や越前局ら。官位官職は従五位上鎮守府将軍従四位下左兵衛督従三位武蔵守正三位参議征東将軍従二位大納言征夷大将軍正二位、贈従一位、贈左大臣、贈太政大臣

生涯[編集]

鎌倉時代[編集]

高氏は当初は嫡子ではなく、兄に高義という異母兄がいたのだが、この高義が文保元年6月24日1317年8月2日)に早世し、高義と同母(北条顕時の娘)の兄弟が他にいなかったため、庶子である高氏が嫡子に選ばれ、三河上総守護に任命される[1]。なお、名の高氏は鎌倉幕府の第14代執権北条高時偏諱である。足利氏は歴代当主が北条氏との婚姻を繰り返しており、その関係から高氏も第16代執権の北条守時の妹を正室に迎えて北条一族として厚遇されていた。

後醍醐天皇による元弘の乱が起こると、元徳3年/元弘元年(1331年9月に北条高時の命令で北条貞直北条貞冬らと共に笠置城攻めに参加するために上洛する[1]。この笠置城攻めは尊氏らが上洛する前に決着が着き、後醍醐天皇は幕府により隠岐に流罪とされた。しかし正慶2年/元弘3年(1333年)に後醍醐天皇は隠岐から脱出したため、北条高時の命令で後醍醐天皇を討伐するために北条高家と共に上洛する[2]。なおこの際、高氏の寝返りを警戒した高時の命令で嫡子の義詮は鎌倉に留められることになった[2]

しかし上洛して間もなく高家は赤松円心の軍勢に敗れて戦死し、高氏はそれを機に4月29日に自領の丹波篠村で挙兵し、後醍醐天皇に帰服する使者を送って鎌倉幕府から離反した[2]5月7日には京都に攻め入って六波羅探題北条仲時北条時益らを京都から追い、直ちに奉行所を設置して畿内における武士の掌握に努めた[2]。これは高氏が畿内における軍事指揮権や戦時の政務処理機関、さらには狼藉人の追捕などいわゆる政権を掌握したようなものであり、後の室町幕府の成立の端緒をここに求める事ができるとされている[2]

一方、鎌倉には関東で挙兵した新田義貞が攻め入るが、高氏はこの新田軍に鎌倉で人質になっていながら脱出した4歳の嫡子・義詮を従軍させ[2]5月22日に新田義貞により鎌倉が陥落して北条高時らが自殺し、ここに鎌倉幕府は滅亡した。

建武政権下[編集]

建武政権において高氏の功績は大とされ、恩賞として武蔵など3カ国と北条氏の遺領30箇所を与えられた[2]。弟の直義にも遠江など東海道方面に多くの所領を与えられた[2]。また後醍醐天皇の諱である「治」から偏諱を受けて尊氏と改名した。さらに元弘3年(1333年12月には後醍醐天皇の皇子である成良親王を奉じて弟の直義が鎌倉に下向して東国の行政や裁判を担当するなど、かなり強大な権限が建武政権からは授与されていた[2]。ただ、尊氏が望む征夷大将軍職は幕府復興を警戒する護良親王により与えられず、必ずしも順風満帆だったわけではない。

護良親王と尊氏の対立は日を追うごとに深まり、遂に護良親王は尊氏追討の令旨を発した。これに対して尊氏は後醍醐天皇の寵愛が深い阿野廉子に近づいて護良親王の排斥を策する。護良親王は鎌倉幕府打倒で功績は大であったが、一方で令旨を諸国の武士に乱発したり、勝手に令旨を勅命と称したりするなどしており、尊氏との対立の最中でも非常に質の悪い武士を雇って尊氏の暗殺を謀ったり、そのために京都の治安が極度に悪化するなどして後醍醐天皇との間に軋轢が生まれていた。阿野廉子は後醍醐天皇の世継に自らが生んだ皇子の後継を望んでおり、そのために護良親王は邪魔な存在であり、ここに尊氏と廉子の利害は一致していた。結局、尊氏追討の令旨を乱発した事が罪と見なされて建武元年(1334年11月に護良親王は征夷大将軍を解任された上に逮捕されて鎌倉に護送された[2]

建武2年(1335年7月、北条高時の遺児である北条時行信濃で挙兵して鎌倉を襲撃すると(中先代の乱)、各地で足利軍は敗れて鎌倉を任されていた足利直義は三河に逃れるが、この混乱に乗じて鎌倉に幽閉していた護良親王を殺害する。尊氏は8月2日に時行討伐のために京都を出陣するが、この出陣前に時行討伐のために征夷大将軍の補任を望んだ[2]。後醍醐天皇は成良親王を征夷大将軍に任命し、尊氏を征東将軍に任命した。尊氏は北条軍を各地で破り、時行こそ取り逃がすも鎌倉を奪還し、その功績により後醍醐天皇は尊氏を従二位に叙した[2]。しかし尊氏はこの際、鎌倉攻めで功績があった者に関東における新田義貞やその一族の領地を欠所として与えたりし、義貞も報復として畿内における足利一族の所領を欠所として押さえるなどして尊氏・義貞の対立が表面化する。後醍醐天皇は鎌倉平定後に尊氏に帰京するように命じるが、帰京すれば義貞が襲撃するという風聞がある事を理由に拒否し、まずは義貞の追討を求めた。また、後醍醐天皇との対立を避けられないと見た弟の直義や家臣らにより尊氏名義の兵力の動員を求める書状が諸国に出されていたこと、護良親王の殺害が足利直義の手によるものなどが明らかになるに及んで遂に後醍醐天皇は新田義貞に尊良親王を与えて鎌倉の尊氏追討を命じるに至った。

建武政権との戦い[編集]

尊氏は後醍醐天皇と対立する意思は無く、政務を弟の直義に任せて浄光明寺に引き籠った[2]。やむなく直義が総大将になって下向してきた新田義貞と戦うも、足利軍は士気が上がらず新田軍の前に直義らは大敗して鎌倉に逃げ戻る。直義は尊氏を出馬させるために後醍醐天皇が足利一族を悉く殲滅せよという命令の趣旨を出した勅書を偽造して尊氏の説得に当たり、尊氏も一族の存亡がかかっているのを見てさすがに立ち上がり、自ら出陣して新田軍と戦った箱根・竹ノ下の戦いで新田軍に大勝し、そのまま京都に上洛する。こうして一旦は京都は尊氏の支配下に入るも、尊氏を追撃してきた北畠顕家率いる奥州軍や軍勢を再建した楠木正成、新田義貞らに攻められて京都の戦いで大敗し、建武3年(1336年)2月に九州に下向した[2]

尊氏は朝敵の汚名を避けるため、かつて北条氏が擁立し後醍醐天皇に皇位を追われた光厳上皇に接近し、備後に逃亡した際に遂に光厳上皇の院宣を手に入れ、しかも足利一族やその傘下の武将を西日本諸国の守護に任命する軍事指揮権を認めるなどされたため、尊氏は朝敵の汚名をこうして避けるに至ったばかりではなく、九州においては筑前多々良浜の戦いにおいて後醍醐天皇方の菊池武敏らを寡兵ながらも破り、わずか2ヶ月で九州を平定して再度京都を目指して上洛を開始する[2]。これに対して後醍醐天皇側は新田義貞に尊氏追討を命じるも、播磨白旗城で足利方の赤松円心に進軍を阻まれるなど山陽平定から躓いており、情勢が圧倒的に不利と判断した楠木正成は新田義貞を排斥して尊氏と和平するべき、あるいは京都に尊氏を誘い込む別策など様々な献策を行なうも受け入れないなど対応は杜撰なものばかりであった[2]。足利尊氏が陸と海の双方から大軍で東上している事を知った後醍醐天皇は楠木正成と新田義貞に迎撃を命じるも、建武3年/延元元年(1336年)5月の湊川の戦いで後醍醐天皇方は大敗を喫して楠木正成は戦死し、後醍醐天皇は京都から逃亡して再び京都は尊氏の支配下に入った[2]

尊氏は8月に光厳上皇の皇子である光明天皇の即位式を断行し、10月には比叡山に逃亡していた後醍醐天皇を下山させて神器授与の儀を行ない、11月には建武式目を公布して、事実上幕府を開設する事を全国に示した[2]。だが12月に後醍醐天皇が吉野に逃亡し、ここに南北朝の動乱が始まる。当初は後醍醐天皇方、いわゆる南朝の反撃が激しく、特に奥州の北畠顕家は建武4年/延元2年(1337年)8月に出陣して鎌倉を攻め落とすなど攻勢は凄まじかった。しかし北畠顕家は足利方(北朝)に勝利を重ねるも、北陸で同じく攻勢を強めていた新田義貞と連携を取れず、北朝軍の反撃を受けて延元3年/建武5年5月22日1338年6月10日)に顕家は和泉で、義貞は延元3年/建武5年閏7月2日1338年8月17日)に越前で戦死し、ここに北朝の軍事的優位は確立した[2]。そして8月、足利尊氏は光明天皇から征夷大将軍に任命され、ここに室町幕府が名実共に開幕する事になった[2]

暦応2年/延元4年(1339年)8月には後醍醐天皇も吉野で崩御[2]、建武政権との戦いは完全に尊氏の勝利で決着することになった。

観応の擾乱[編集]

尊氏は征夷大将軍であったが、幕府創設期にあたり全権は掌握せず、自らは恩賞方・侍所守護輔任権などの将軍固有の権限を握り、安堵方・引付方・内談方・禅律方などの政務に関しては弟の直義に譲った[2]。この二頭政治は草創期の幕府の運営には非常に有効になる。また、夢窓疎石とも密接な関係を構築するなど、初期幕政は安定期の内に過ぎた。このような中で楠木正成の遺児・楠木正行により反乱を起こされているが、尊氏は重臣の高師直に命じてこれを鎮圧した。

しかし二頭政治は次第に弊害が現れだした。まず尊氏の執事・高師直と直義の対立、次に直義の養子になった尊氏の庶子である直冬の処遇問題、そして足利一門とその直属家臣、新興領主と旧鎌倉幕府の御家人などにおける当時の複雑な階級や利害問題などがそれで、貞和5年/正平4年(1349年)10月には師直と直義の対立が遂に表面化し、師直の要請により直義は甥の義詮に政務を譲って隠退する[2]。正平5年/観応元年(1350年)10月、九州に逃れた足利直冬を討伐するために尊氏と師直が軍勢を率いて京都を離れた隙に直義は決起し、正平6年/観応2年(1351年)2月に高師直・師泰ら高一族は悉く討たれた[3]。しかし尊氏と直義の対立は止むことが無く、8月に直義は京都を脱出して北陸に逃れた。尊氏は直義を討伐するためにもう一方の敵である南朝との和議を望んで南朝の正平の元号を用いるようになる[3]正平一統)。その上で尊氏は義詮を京都に残して自らは軍勢を率いて関東に下向し、正平7年/観応3年(1352年)1月に直義との戦いに勝利して和睦するも、直義は2月に尊氏の毒殺説が疑われる不審死を遂げた[3]。ここに直義の死去をもって観応の擾乱は終焉した。

南朝との戦い、再び[編集]

観応の擾乱が終焉したとはいえ、関東にはまだ敵が多く存在していたために尊氏はその平定に追われ、京都に戻ることはできなかった[3]。正平7年/観応3年(1352年)閏2月になると南朝が尊氏との和睦を破棄して正平一統が破れ、尊氏不在の京都を襲撃して閏2月20日に義詮ら残留していた足利軍を京都から追放した[3]。しかもこの2日前の閏2月18日には尊氏も占領していた鎌倉を新田義宗らに奪われていた[3]。しかし尊氏は3月12日に鎌倉を奪回し、義詮も3月15日に京都を奪回した[3]。ただ、京都を1度奪われた際、尊氏が擁立していた北朝の光厳・光明・崇光上皇皇太子直仁親王が南朝に連れ去られていたため、尊氏や義詮らは光厳上皇の第3皇子であった後光厳天皇を擁立する[3]

しかし南朝の抵抗はなおも続き、これに旧直義一派や直冬らも結託して正平8年/文和2年(1353年)6月に南朝は再び義詮から京都を奪った[3]。この時は義詮は後光厳天皇を奉じて美濃まで撤退する[3]。この時、関東に滞在していた尊氏は京都の情勢の変化を見て7月29日に関東の大軍を率いて鎌倉から出陣し、美濃垂井の行宮で後光厳天皇に謁し、9月21日に京都を奪回した[3]

正平9年/文和3年(1354年)12月には直冬率いる南朝軍に再び京都を奪われ、尊氏は後光厳天皇を奉じて近江まで逃亡する[3]。これは正平10年/文和4年(1355年)3月に播磨にいた義詮の軍勢と呼応して京都を奪い返した[3]。これにより直冬、ひいては南朝の大規模な活動も以後は停滞する[3]。直冬の停滞を見てそれまで直冬に協力していた越前の斯波高経も正平11年/延文元年(1356年)に尊氏の下に降参した[3]

正平12年/延文2年(1357年)9月、尊氏は九州でなおも活動を続ける南朝勢力を追討するために九州遠征を計画していたが、正平13年/延文3年(1358年)4月30日に京都二条の万里小路邸で死去した[3]。享年54[3]。死因は背中にできた悪性腫瘍であるという[3]。跡は嫡子の義詮が第2代将軍に就任した。

人物像[編集]

尊氏の性格について夢窓疎石は「強胆で死に臨んでも笑を忘れず、人を憎まず敵にも寛宥で、心広く財宝を惜しまない」という三徳を挙げて高く評価している(『梅松論』)。田中義成は『南北朝時代史』において「大局をつかみ寛大であることが成功の原因」と指摘している[3]明治時代末期には山路愛山が『日本英雄伝足利尊氏』において「時代を代表する英雄」と高く評価した[3]

ただ尊氏は建武政権、つまりは後醍醐天皇から離反した経緯があるため、戦前には南北朝の正統問題が起こると逆臣として非難されることも多かった[3]

戦後になると尊氏の卓越した政治手腕などが再評価され、王朝権力を倒して歴史を進展させた点、畿内近国における新興武士団の組織化などが注目されるようになった。佐野学は尊氏を「下克上の実力時代を開いた大きな功績を持つが革命家ではなく日本的なマキャべリストの典型である」と規定している[3]

尊氏は当時においては政略・軍略ともに卓越していたが南北朝の動乱を終結させる事も幕府政権の安定化も適わずに終わっており、政権の創始者としては源頼朝徳川家康に比べ見劣りする印象は否めない。加えて昭和初期までは天皇中心の史観から平将門と並ぶ大悪人の評価が定着しており、限りないマイナスイメージがつきまとった。井沢元彦は「尊氏には善人さが過ぎて頼朝や家康の政略面での非情さに欠けていた」と評価している。実際、宿敵であった後醍醐天皇が崩御すると7日間喪に服し、さらに菩提を弔うために天竜寺を建立するなどお人好しな部分も目立っている。

光明天皇践祚の2日後、尊氏は京都の清水寺に願文を捧げており、それによると「この世は夢のようにはかないものなので、この世での幸せの代わりにあの世での幸福をお願いします。この世での幸福は弟の直義にあげて、直義をお守りください」とある。尊氏は現世での乱世に嫌気がさし、治世がある程度安定したら出家するつもりでいたと見られているが、残念ながら尊氏の時代に治世が安定することはなかった。

また尊氏は、後醍醐天皇を講和を口実に捕らえて最初から騙すつもりだったと見られているが、尊氏は講和の条件として後醍醐天皇に対し、尊氏が保持する諸国の国衙領を進呈(返上)するとまで言って、後醍醐天皇の経済的保障までしているため、天皇を騙すつもりはなかったのではないかと見られている(学習院大学教授家永遵嗣の説)。

脚注[編集]

  1. 1.0 1.1 1.2 安田元久 編『鎌倉・室町人名事典コンパクト版』新人物往来社、1990年、P19
  2. 2.00 2.01 2.02 2.03 2.04 2.05 2.06 2.07 2.08 2.09 2.10 2.11 2.12 2.13 2.14 2.15 2.16 2.17 2.18 2.19 2.20 2.21 2.22 安田元久 編『鎌倉・室町人名事典コンパクト版』新人物往来社、1990年、P20
  3. 3.00 3.01 3.02 3.03 3.04 3.05 3.06 3.07 3.08 3.09 3.10 3.11 3.12 3.13 3.14 3.15 3.16 3.17 3.18 3.19 3.20 3.21 安田元久 編『鎌倉・室町人名事典コンパクト版』新人物往来社、1990年、P21

参考文献[編集]