秋山虎繁

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秋山 虎繁(あきやま とらしげ、大永7年(1527年[1] - 天正3年11月21日1575年12月23日))は、戦国時代武将甲斐武田家家臣武田二十四将の一人に数えられる武田家の名将とされる。諱は一般的に信友(のぶとも)と言われてきたが、これは誤伝とされる[2]。他の諱に晴近(はるちか)と伝わるものもあるがこれも疑問を持たれている[1]。実子は無く、養子に昌詮がいる[3][2]。父は新左衛門尉信任で嫡子。妻に織田信長の叔母であるおつやの方。受領名は伯耆[2][1]。官途は膳右衛門尉[2]

生涯[編集]

武田信玄に仕え、天文15年(1546年)に同心衆50騎を与えられて侍大将となり、譜代家老衆に列した[1]弘治2年(1556年)10月に信濃伊那郡代・高遠城代を兼任し、信濃先方衆の坂西氏以下200騎を相備衆として付けられた[1]

永禄5年(1562年)6月に武田勝頼が高遠城主に就任したため、信濃飯田城代に転任された[2][4][1]。永禄末期になると徳川家康との対立から遠江三河方面侵攻の御先衆を務める[1]

元亀3年(1572年)、信玄が徳川家康の領地に侵攻するのに合わせて虎繁は織田信長美濃に侵攻し、東美濃の要衝である岩村城を攻略し、直前に病死していた前城主・遠山景任正室で信長の叔母にあたるおつやの方を自らの妻にした[4][1]。以後は岩村城代として信長の押さえ[3]と東美濃の統治を任される[4]

天正3年(1575年)5月の長篠の戦い武田勝頼が信長・家康連合に大敗すると、信長は東美濃に反攻の軍勢を送る。虎泰は抗戦するが勝頼の援軍が送られず同年の11月に開城[4]。捕縛されておつやの方と共に長良川の川原において処刑された[4]逆磔にされたという。享年49[3]。法名は浄国[4][3]。実子が無かったため、土屋昌続の実弟が養子・昌詮として跡を継いだ[4][3]

脚注[編集]

  1. a b c d e f g h 柴辻俊六 『武田信玄大事典』新人物往来社、2000年、P22
  2. a b c d e 柴辻俊六・平山優 『武田勝頼のすべて』新人物往来社、2007年、P216
  3. a b c d e 柴辻俊六 『武田信玄大事典』新人物往来社、2000年、P23
  4. a b c d e f g 柴辻俊六・平山優 『武田勝頼のすべて』新人物往来社、2007年、P217

秋山虎繁が登場する作品[編集]

小説
  • 鬼丸智彦『城将―武田の忠臣・秋山信友の生涯』山梨日日新聞社出版部 (2005年)
ドラマ

参考文献[編集]

  • 柴辻俊六平山優 『武田勝頼のすべて』(新人物往来社、2007年) ISBN 978-4-404-03424-3
  • 柴辻俊六 編 『武田信玄大事典』(新人物往来社、2000年)ISBN 4-404-02874-1