若狭武田氏
若狭武田氏(わかさたけだし)とは、日本の氏族であり、武家である。甲斐武田氏・安芸武田氏の一族である。
概要[編集]
室町時代中期の永享12年(1440年)、室町幕府の第6代将軍・足利義教の命令で丹後国の守護である一色義貫を謀殺した安芸武田氏の一族である武田信栄が、義教よりその功を賞されて若狭国の守護職を与えられたことが、若狭武田家の起源である。信栄は翌年に若死し、弟の信賢が跡を継いだ。信栄の時代に現在の福井県小浜市に青井山城を築城して居城とし、応仁の乱では東軍に属した[1]。
若狭国は小国だったが、京都に近い利点や細川氏と結んだことから、中央政治に参画して勢力を拡大。一時期は宗家の甲斐武田家より中央政治に介入する存在になった。また、近隣の越前国の朝倉氏とは縁戚関係を結ぶなどして勢威を保った。
しかし、中央で結んでいた細川家が内訌などにより衰退し、この内訌に若狭武田家も巻き込まれることになる。さらに、細川氏に代わって三好氏が台頭すると、若狭武田家は三好氏に敗れてしまった。しかも、若狭武田家中で家督をめぐって一族間で内紛が相次ぎ、これに家臣団の対立や内訌まで加わって一気に衰退し、永禄11年(1568年)には越前国の朝倉義景に攻められて当主の武田元明が拉致され、事実上大名としては滅亡したも同然の状態となった[1]。
その後、朝倉義景と織田信長の対立の中で、若狭国は両勢力の衝突がたびたび発生。義景が信長に滅ぼされると、元明は信長に降って家名こそ存続することを許されるも、若狭の守護職には信長の重臣である丹羽長秀に与えられ、元明には捨扶持が与えられたのみであった。
天正10年(1582年)6月、本能寺の変が起こって信長が明智光秀に殺されると、元明は旧領奪回のために光秀に属して長秀の所領を攻撃した。このため、山崎の戦いで羽柴秀吉が光秀を滅ぼすと、元明は謀反人に加担したとして追討され、最終的には秀吉や長秀によって自害することを余儀なくされ、これにより大名としての若狭武田家は完全に滅亡となった。
なお、元明の子孫はそれぞれ江戸時代も存続しているとされている。