森戸辰男
森戸 辰男(もりと たつお、1888年(明治21年)12月23日 - 1984年(昭和59年)5月28日)は、経済学者、政治家。広島大学名誉教授。文部大臣、衆議院議員、広島大学初代学長、中央教育審議会会長などを歴任。
来歴[編集]
広島県福山東堀端(現・福山市)に旧福山藩士の森戸鸞蔵・チカの二男として生まれた。第一高等学校を経て[1]、1914年(大正3年)に東京帝国大学法科大学経済学科を卒業し、1916年(大正5年)に経済学科助教授、1919年(大正8年)に新設された経済学部教授となった[2]。同年12月に経済学部紀要『経済学研究』創刊号に論文「クロポトキンの社会思想の研究」を発表するも、学内の右翼団体興国同志会から危険思想の宣伝であると攻撃され、1920年(大正9年)1月に紀要編集発行名義人の大内兵衛とともに新聞紙法第42条の朝憲紊乱罪で起訴された。森戸は禁錮2ヵ月・罰金70円、大内は禁錮1ヵ月・罰金20円(執行猶予2年)の有罪判決を受け、経済学部教授会は両名の休職を決議し、東大を退官に追い込まれた(森戸事件)[3]。出獄後の1921年(大正10年)に大原社会問題研究所所員となり[4]、ドイツ・ロシア・イギリス・フランスなど欧州諸国に留学した。1923年(大正12年)に帰国後は研究所に勤めつつ、評論活動や労働者教育で活躍した[5]。1929年(昭和5年)に雑誌『改造』に「大学の顛落」を執筆し、マルクス主義の立場から「自由主義教授の信頼するに足る人格と卓絶せる学説と不撓の闘争力を以てするも」、大学の転落は必然であると主張[6]。東大教授で後にその座を追われることになる河合栄治郎との間で論争を展開した[7]。一方で戦時中に大政翼賛運動に共感する論文を発表していたとされる[2]。
敗戦後の1945(昭和20)年秋に日本文化人聯盟に参加[1]。11月5日に高野岩三郎、鈴木安蔵らとともに憲法研究会を結成し、12月に「憲法草案要綱」を発表した[8]。同年11月に日本社会党の結成に参加、入党。1946年(昭和21年)4月の第22回衆議院議員総選挙に旧広島3区から立候補して初当選、当選3回[5]。一高校長であった天野貞祐らとともに教育基本法原案の骨組みを作成[9]、また日本国憲法第25条にワイマール憲法にある生存権を付け加えるのに貢献した[8]。1947年(昭和22年)6月から1948年(昭和23年)10月に片山哲内閣と芦田均内閣の文部大臣を務め、六・三制や教育委員会公選制の実施など戦後の教育改革に携わった[5]。1949年1月の総選挙後、社会党左派の稲村順三が党の性格を「科学的社会主義に立脚する党」「行動的階級政党」だと主張すると、右派を代表して「勤労国民を基盤とする大衆政党」だと主張し、党内で「森戸・稲村論争」を展開した。1950年(昭和25年)に代議士を辞任し[1]、広島大学初代学長(1950年4月~1963年3月)に就任[10]。中央教育審議会委員(1953年9月~1971年7月)[1]、同会長(1963年6月~1971年7月)、日本育英会会長(1963年4月~1972年3月)、日本図書館協会会長(1964年6月~1979年10月)、国語審議会会長(1964年10月~1966年1月)、日本ユネスコ国内委員会会長(1959年3月~1961年7月)、日本放送協会学園高等学校初代校長(1963年4月~)なども歴任し[10]、教育界の大御所的存在として君臨した。
1963年(昭和38年)9月、広島市名誉市民。1964年(昭和39年)11月、勲一等瑞宝章を受章。1971年(昭和46年)11月、文化功労者顕彰、福山市名誉市民。1974年(昭和49年)4月、勲一等旭日大綬章を受章[10]。1984年(昭和59年)に95歳の高齢で死去した。森戸はその長い人生において、戦前は「学問の自由を守ろうとし、労働者の教育や社会運動に寄与した」が、戦後になると中央教育審議会委員長として「期待される人間像」を発表したり、「家永教科書裁判の国側弁護人として法廷で証言したりした保守的な人物」としての2面的な部分があり、評価が分かれている[1]。
主著に『クロポトキンの片影』(同人社、1921年)、『思想と闘争』(改造社、1925年)、『大学の顛落』(同人社、1930年)、『青年学徒に与う』(学芸社、1946年)、『平和革命の条件』(東京出版社、1950年)、『日本におけるキリスト教と社会運動』(潮書房、1950年)、『学問の自由と大学の自治』(民主教育協会、1961年)、『思想の遍歴(上・下)』(春秋社、1972-75年)、『第三の教育改革』(第一法規出版、1973年)、訳書にブレンターノ『労働者問題』(岩波書店、1919年)、メンガー『近世社会主義思想史』(我等社、1921年)、『全労働収益権史論』(弘文堂書房、1924年)などがある。
備考[編集]
1960年1月に民主社会主義連盟(民社連)が開催した第1回民主社会主義研究会議に来賓として出席し、祝辞を述べた。民社連が発展的に解消した民主社会主義研究会議(民社研)の役員には就かなかったが、つながりを持った。西尾末廣は民主社会党(のちの民社党)の初代党首に蠟山政道か森戸辰男を起用する案も考えたが、結局は西尾が初代委員長に就任した[11]。
社会思想研究会顧問(1949年11月〜1952年2月)[12]、民主社会協会顧問(1950年夏〜)[13]、日本労働者教育協会(日労協)顧問(1956年9月~)[14]、労働科学研究所理事(1949年10月~)、理事長(1959年3月~)、能力開発研究所理事長(1963年1月~1971年10月)、松下視聴覚教育研究財団初代理事長(1973年12月~)なども務めた[10]。
広島大学学長に就任したのは、新制大学発足直後で、当時、隣県の岡山大学は旧軍用地を利用した集中キャンパス形成に熱心だったが、広島大学は旧制学校の校地を大切にし、さらに広島市への集中を避け、福山市に新たに水畜産学部のキャンパスを開設した。このタコ足状態は民主的な森戸学長の考えによるものだったが、学園紛争の勃発の際にタコ足状態が問題になり、東広島市へキャンパスの大半が移転する結果を残した。
著書[編集]
- 『クロポトキンの片影』 同人社書店、1921年
- 『ロシヤ大飢饉と其救濟運動』 大原社会問題研究所出版部[大原社会問題研究所パンフレット]、1922年
- 『社会科学研究の自由に関して青年学徒に訴ふ』 改造社、1925年
- 『思想と闘争』 改造社、1925年/黒色戦線社、1991年
- 『最近ドイツ社会党史の一齣』 同人社書店、1925年
- 『學生と政治――我國學校教育の階級性とその矯正として『社會科學』運動』 改造社、1926年
- 『闘爭手段としての學校教育』 同人社書店、1926年
- 『思想闘争史上に於ける社会科学運動の重要性』 改造社、1927年
- 『大學の顛落』 同人社、1930年
- 『我國における研究自由鬪爭史の一節――進化主義思想の移植』 岩波書店[岩波講座哲学]、1933年
- 『オウエン・モリス』 岩波書店[大教育家文庫]、1938年、復刻版1984年
- 『戰爭と文化』 中央公論社、1941年
- 『獨逸勞働戰線と産業報國運動――その本質及任務に關する考察』 改造社、1941年
- 『獨逸勞働の指導精神』 栗田書店、1942年
- 『青年學徒に訴ふ――知識階級はいま何を爲すべき乎』 學藝社、1946年
- 『救国民主聯盟の提唱』 鱒書房、1946年
- 『労働組合の課題』 君島書房、1947年
- 『社会民主主義のために』 第一出版、1947年
- 『新日本建設國民運動の性格と目標』 印刷局[公民叢書]、1948年
- 『クロポトキン』 弘文堂[アテネ文庫]、1949年
- 『平和革命の條件』 東京出版社、1950年
- 『日本におけるキリスト教と社会運動』 潮書房、1950年
- 『變革期の大学』 広島大学本部、1952年
- 『國際連合と平和主義』 日本国際連合協会編、日本國際連合協会、1952年
- 『民主主義の反省』 民主教育協会[IDE教育選書]、1957年
- 『日本教育の回顧と展望』 教育出版、1959年
- 『国際理解教育の基本的理念』 日本ユネスコ国内委員会[ユネスコ双書]、1960年
- 『学問の自由と大学の自治』 民主教育協会[IDE教育資料]、1961年
- 『科学と世界平和』 民主教育協会[IDE教育資料]、1962年
- 『時局と教育――森戸辰男講演集』 民主教育協会、1963年
- 『これからの教育』 日本教師会出版部[教師会叢書]、1966年
- 『思想の遍歴 上 クロポトキン事件前後』 春秋社、1972年
- 『教育不在――占領政策と権力闘争の谷間』 鱒書房、1972年
- 『第三の教育改革――中教審答申と教科書裁判』 第一法規出版、1973年
- 『憲法と自衛隊』 労働問題懇話会[産業労働ライブラリー]、1974年
- 『思想の遍歴 下 社会科学者の使命と運命』 春秋社、1975年
- 『遍歴八十年』 日本経済新聞社、1976年
- 『無政府主義』 黒色戦線社、1988年
- 『クロポトキンの社会思想の研究』 黒色戦線社、1988年
共編著[編集]
- 『政府はいかに思想を善導せんとするか』 山本宣治共著、大阪労働学校出版部、1929年
- 『経済学全集 第50巻 剰余価値学説略史』 笠信太郎共著、改造社、1933年
- 『労働組合と經濟復興』 中山伊知郎、労働協会共著、毎日新聞社[毎日労働講座]、1947年
- 『新教育基本資料とその解説』 共著、學藝教育社、1949年
- 『平和の経済的基礎』 大内兵衛共著、全国統計協会連合会、1952年
- 『経済学の諸問題――久留間鮫造教授還暦記念論文集』 大内兵衛共編、法政大学出版局、1958年
- 『日本を考える』 波多野鼎共著、労働問題懇話会[産業労働ライブラリー]、1973年
翻訳[編集]
- ブレンターノ 『勞働者問題』 岩波書店、1919年
- G. D. H. Cole, W. Mellor 『ギルド社會主義』 文化學會出版部、1920年
- アントン・メンガア 『近世社會主義思想史』 我等社、1921年
- ヴエルネル・ゾムバルト 『勞働組合運動の理論と歴史』 大原社會問題研究所出版部、1922年/細野三千雄共訳、同人社書店、1925年
- レーデラア 『岐路に立てるヨーロッパ――其解決と極東』 大阪毎日新聞社、1924年
- アントン・メンガア 『全勞働収益權史論』 弘文堂書房、1924年
- 『社會思想全集 第21巻 全勞働収益權史論・軍國主義論』 平凡社、1930年
- カール・マルクス『マルクス「剰餘價値學説史」(10分冊)』 櫛田民蔵、大内兵衛共訳、同人社書店[大原社會問題研究所パンフレット]、1925年
- マルクス、エンゲルス『ドイッチェ・イデオロギー――マルクス・エンゲルス遺稿』 河上肇、櫛田民蔵共訳、我等社[我等叢書]、1930年
- エルンスト・エンゲル 『ベルギー勞働者家族の生活費』 栗田書店[統計學古典選集]、1941年/第一出版[統計學古典選集]、1947年
- エンゲル 『ベルギー労働者家族の生活費』 栗田出版会[統計学古典選集]、1968年/第一出版[統計学古典選集]、1968年
- エンゲル 『労働の価値・人間の価値』 栗田書店[統計學古典選集]、1942年/第一出版[統計學古典選集]、1947年
- 『独逸労働の指導精神』 栗田書店、1942年
- モリッツ・ウィルヘルム・ドロービッシュ 『道徳統計と人間の意志自由』 栗田書店[統計學古典選集]、1943年
- ズューズミルヒ『神の秩序』 高野岩三郎共訳、第一出版[統計學古典選集]、1949年
出典[編集]
- ↑ a b c d e 小池聖一「森戸辰男、人と思想」広島大学文書館
- ↑ a b 鶴見俊輔「森戸辰男」、日本アナキズム運動人名事典編集委員会編 『日本アナキズム運動人名事典』ぱる出版、2004年、649頁
- ↑ 森戸事件(もりとじけん)とは コトバンク
- ↑ 新訂 政治家人名事典 明治~昭和の解説 コトバンク
- ↑ a b c 平林春好「森戸辰男」、朝日新聞社編『現代人物事典』朝日新聞社、1977年、1418頁
- ↑ 【湯浅博 全体主義と闘った思想家】独立不羈の男・河合栄治郎(42)その生涯編・一騎打ち(1/5ページ) 産経ニュース(2016年5月14日)
- ↑ 【湯浅博 全体主義と闘った思想家】独立不羈の男・河合栄治郎(42)その生涯編・一騎打ち(2/5ページ) 産経ニュース(2016年5月14日)
- ↑ a b GHQでなく日本人が魂入れた憲法25条・生存権 (2ページ目) 日経ビジネス電子版(2016年3月30日)
- ↑ 森戸辰男氏(略歴) 獨協大学
- ↑ a b c d 「森戸辰男理事長逝去」『労働科学』60巻7号、1984年
- ↑ 石上大和『民社党――中道連合の旗を振る「責任政党」』教育社、1978年
- ↑ 社会思想研究会編『社会思想研究会の歩み――唯一筋の路』社会思想社、1962年
- ↑ 中村菊男「蝋山先生と民主社会主義運動」『改革者』第68号、1967年11月
- ↑ 山口義男「芝園橋界わい(15)素晴らしき指導者たち(その2)」『改革者』第41巻第12号(通巻485号)、2000年12月
外部リンク[編集]