河合栄治郎

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河合 栄治郎(かわい えいじろう、1891年2月13日 - 1944年2月15日)は、日本の教育者、官僚、経済学者である。第二次世界大戦で台頭したファシズムに対して圧力がかかるなか言論で抵抗した自由主義者である。

生涯[編集]

生い立ち[編集]

1891年2月13日に東京府南足立郡千住町(現在の東京都足立区千住2丁目)に生まれた。

1896年に千寿尋常高等学校に入学した。ここで生涯の恩師となる小林粂三郎と出会った。

1902年には私立郁文館中学校の浅草文官に入学した。しかし、ここでいじめに遭い転校。東京府立大三中学校に転入した。ここでもいじめ被害にあっていたものの、学友会の活動などを通じて徐々に学友も増え、周囲から信用を勝ち取るようになっていった。

1908年に第一高等学校に入学。当時の校長は教育者として名高い新渡戸稲造だった。当初は河合は校長反対派だったものの、新渡戸の言葉を聞いて感動し、新渡戸宗として理想主義・人格主義思想を得ることになる。

1911年9月に東京帝国大学政治学科に入学。そこでは特に小野塚喜平次と師弟関係になった。

官僚[編集]

1919年8月に農商務省に入省。かねてより興味があった工場法を扱う部署に配属された。そこでは労働組合の結成、労働保険法の実施といったものを主張。しかし、受け入れられずに辞職。辞職後に、実名こそ挙げていないものの、官界の弊害について内部告発した。

東京大学[編集]

東京大学では教授に就任するなど、教育者として活動をした。中でも帝国大学新聞で二・二六事件を批判した論文は大きく注目を集めた。当時、軍部の横暴を感じながらも報復を恐れていた人物が多かった中での発表は論敵の美濃部亮吉も好評価を下している。

裁判[編集]

自由主義を訴えるなどしたため、東京帝国大学を休職処分に追い込まれ、1939年2月28日に出版法違反として起訴された。一審では無罪を勝ち取ったものの、上告審で有罪を言い渡され確定してしまう。なお、当時河合に無罪判決を出した一審の裁判長は左遷されている。

死後[編集]

1944年に河合は死去した。その後は、東京大学を一緒に辞職して河合の裁判闘争を支援した木村健康が、思想、教育者として正当な後継者として認知された。

一方、河合が東京大学を休職に追い込まれた際に辞職せずに河合と袂を分かち河合が失望することになる大河内一男は、その後東京大学の総長となった。しかし、学生運動を激化させる一因を作ってしまい、辞職に追い込まれることになる。

略歴[編集]

  • 1891年2月13日 東京府に生まれる
  • 1917年
4月 金井国子と結婚
  • 1939年
東京大学教員の教員休職に追い込まれる
  • 1944年2月15日 心臓麻痺にて逝去

関連項目[編集]

参考文献[編集]