民社党
民社党(みんしゃとう、英:Democratic Socialist Party)は、日本にかつて存在した右派社会民主主義政党[1]。旧称は民主社会党。通称は民社、DSP。
概要[編集]
1960年1月24日に社会党右派の西尾派と河上派の一部が民主社会党(略称:民社党)として結成し、1969年11月に民社党と改称した。結党時の衆議院議員は40名、参議院議員は17名で、解党までにこの人数を超えることはできなかった。1961年10月に各国の社会民主主義政党でつくる国際組織・社会主義インターナショナルに加盟した[2]。結党大会で関嘉彦が起草した「民主社会党暫定綱領」を採択し、1962年1月の第4回全国大会でほぼそのままの形で「民主社会党綱領」を採択した。綱領では「民主社会主義の原理に立つ、資本主義と左右の全体主義に対決する、一切の抑圧と搾取から社会の全員を解放する、個人の尊厳を重んじる、人格の自由な発展ができるような社会を建設する」[3]国民政党であることを宣言した。1992年4月の第37回全国大会で「民主社会主義」の文言を削除した新綱領を採択した。1993年8月から1994年4月の細川護熙内閣、1994年4月から6月の羽田孜内閣で与党となった。1994年12月9日に解党し、翌日に新生党、公明党、日本新党とともに新進党を結成した。解党と同時に旧民社党系の議員によって政治団体「民社協会」が結成され、新進党、新党友愛、民主党、民進党、国民民主党(2018~2020)、国民民主党(2020~)の派閥となっている。
支持母体は全日本労働組合会議(全労会議)、のち全日本労働総同盟(同盟)。反共主義・労使協調路線をとる同盟と「民社党・同盟ブロック」を形成し、「社会党・総評ブロック」と対抗した。民社党、同盟、民社研(民主社会主義研究会議)で三位一体の「民社ブロック」と呼ぶ場合もある[4]。民社党・同盟系の運動団体には憲法擁護新国民会議(新護憲)、核兵器禁止平和建設国民会議(核禁会議)などがある。
2006年にアメリカ合衆国中央情報局(CIA)が民社党の結成に関与していたことが判明した。2006年7月18日に刊行されたアメリカ国務省編さんの外交史料集によると、CIAは日本の左派勢力を弱体化させるため、自民党有力者と左派穏健勢力(社会党右派を指すとみられる)に秘密資金を提供して民社党結成を促していた。民社党が結成された1960年には計7万5000ドルの資金援助があり、秘密工作が打ち切られる1964年まで同程度の援助が続けられたという[5]。
一般的には中道勢力に分類され、「現実政党」「政権交代の可能な健全野党」という肯定的評価と、「自民党の補完勢力」「革新勢力の分断をはかっている」という否定的評価があった。党内には大きく分けて「社公民路線」派と「自公民路線」 派が存在していた。左右の全体主義に反対すると表明していたが、実際には反共に傾斜していた。日本共産党を激しく批判する一方で、自民党や朴正煕政権下の韓国とは親和的だった。当初は日米安保条約の段階的縮小を主張していたが、次第に日米安保の強化を主張する立場へと移った。超法規発言で統合幕僚会議議長を解任された栗栖弘臣を参院選の公認候補にしたり、防衛力増強や有事立法制定を主張したりするなど、自民党以上にタカ派とみられる面もあった。福祉国家の建設を掲げていたが、80年代には行財政改革を推進した。
党本部は東京都港区虎ノ門1-19-12第4森ビルに入居していたが、同ビルの建替えのため1985年12月に東京都港区虎ノ門2-3-13第18森ビルに移転した。
源流[編集]
1926年に結成された社会民衆党が民社党の源流にあたる。敗戦後、戦前の無産運動の3つの潮流、右派の社民系(社会民衆党)、中間派の日労系(日本労農党)、左派の日無系(日本無産党)が大同団結して日本社会党を結成した。社民系が社会党西尾派、日労系が社会党河上派の源流にあたり、西尾派が民社党の労働派(組合派)、河上派が民社党の党人派に連なるとされる。労働戦線では1912年に結成された友愛会(のち総同盟)が民社党を支援した同盟の源流にあたる。民社党のブレーン的存在であった民主社会主義研究会議(民社研)は、旧日労系とみなされた民主社会主義連盟(民社連)と、リベラリスト河合栄治郎の門下生が集まった社会思想研究会(社思研)の大半が合流して結成された[4]。主要メンバーは蠟山政道、関嘉彦、猪木正道、土屋清、武藤光朗ら。民社連や民社研には戦前共産党の幹部であった佐野学、鍋山貞親、三田村四郎、竪山利忠、川崎堅雄、慶應義塾大学の教員を務めていた政治学者の中村菊男、経済学者の気賀健三、その門下生らも加わっている。
結成[編集]
1959年6月2日の参議院選挙で社会党は非改選も含め100議席の獲得を目指したが、結果は84と目標を大きく下回った。西尾派は中央執行委員会で社会党の階級政党論、左派の親中ソ路線、容共統一戦線が敗因であったと主張した。さらに西尾末廣は7月19日の記者会見で、安保解消のためにはこれに替わる安全保障体制とそこに到る筋道を明確にすること、安保改定阻止国民会議の主導権を総評から社会党に移すこと、共産党を国民会議から排除すべきことを主張した(西尾談話)[6]。左派や総評は西尾談話に強く反発し[6]、9月13日に社会党第16回大会で西尾を党規律違反として統制委員会に付議する決議案を採択[7]、10月15日に統制委員会で西尾の譴責処分を強行採決した[6]。西尾派は西尾処分に反対したグループに呼びかけて9月16日に「日本社会党再建同志会」を結成し[8]、全労会議はただちに同志会支持を発表した[9]。10月18日に同志会は新党構想を発表[6]。10月25日に西尾派の32議員(衆議院20名、参議院12名)が離党し、すでに離党していた伊藤卯四郎と合流して院内団体「社会クラブ」を結成した[10]。河上派の12議員(衆議院10名、参議院2名[11])も西尾派に同調して11月25日に離党し、翌日に院内団体「民社クラブ」を結成した[7]。11月30日に「社会クラブ」と「民主クラブ」を中心に民主社会主義新党準備会が結成され[7]、新党名については「民主社会党」と「勤労国民党」の両案が出たが、前者に決定された[11]。翌年1月24日に「社会クラブ」と「民社クラブ」を母体にして民主社会党(略称:民社党)が結成された[6]。東京・九段会館で開かれた結党大会には準備委員234名、大会代議員579名が出席した[11]。結党時の衆議院議員は40名、参議院議員は17名[1]。
役員[編集]
結成時の役員[編集]
歴代委員長[編集]
- 西尾末廣(1960年1月~1967年6月)
- 西村栄一(1967年6月~1971年8月)
- 春日一幸(1971年8月~1977年11月)
- 佐々木良作(1977年11月~1985年4月)
- 塚本三郎(1985年4月~1989年2月)
- 永末英一(1989年2月~1990年4月)
- 大内啓伍(1990年4月~1994年6月)
- 米澤隆(1994年6月~1994年12月)
歴代書記長[編集]
- 曾禰益(1960年1月~1962年10月)
- 西村栄一(1962年10月~1967年6月)
- 春日一幸(1967年6月~1969年2月)
- 佐々木良作(1969年2月~1973年10月)
- 塚本三郎(書記長代行:1973年10月~1974年2月/書記長:1974年2月~1985年4月)
- 大内啓伍(1985年4月~1989年2月)
- 米澤隆(1989年2月~1994年6月)
- 中野寛成(1994年6月~1994年12月)
関連団体[編集]
出典:石上大和『民社党――中道連合の旗を振る「責任政党」』教育社、1978年。
支持団体[編集]
加盟団体[編集]
- 全化同盟政治連盟(全化政連)
友誼団体[編集]
- 全日本労働総同盟(同盟)
- 民主社会主義研究会議(民社研。現・政策研究フォーラム)
- 民社法曹協会
- 日本民主婦人の会(日婦)
- 財団法人富士社会教育センター(現・公益財団法人富士社会教育センター)
- 日本民主社会主義学生同盟(民社学同)
政治資金団体[編集]
選挙で支持・協力関係にある組織[編集]
- 新日本宗教団体連合会(新宗連)
- 在日大韓民国居留民団(民団)
脚注[編集]
注[編集]
出典[編集]
- ↑ a b 田口富久治「民社党」日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
- ↑ 原彬久『戦後史のなかの日本社会党――その理想主義とは何であったのか』中公新書、2000年、273頁
- ↑ “民社党を創り、育てた人々―西尾末広ら―(PDF)”. 日本労働会館 (2013年). 2020年6月2日確認。
- ↑ a b 藤生明「生きていた民社党、保守運動をオルグする(2)」論座(2019年5月5日)
- ↑ 左派弱体化狙い、秘密資金提供~CIAが50年前、日本の保革両勢力に U.S. FrontLine(2006年7月19日)
- ↑ a b c d e 原彬久『戦後史のなかの日本社会党――その理想主義とは何であったのか』中公新書、2000年、139-141頁
- ↑ a b c 『社民連十年史――草の根のロマン――』社民連十年史刊行会、1989年
- ↑ 日本社会党50年史編纂委員会編『日本社会党史』社会民主党全国連合、1996年
- ↑ 小沢貞孝「私の半生 11 民社党に参加 安保後の世論に乗れず落選」信濃毎日新聞松本専売所WEB
- ↑ 原彬久『戦後日本と国際政治――安保改定の政治力学』中央公論社、1988年
- ↑ a b c d e 石上大和『民社党――中道連合の旗を振る「責任政党」』教育社、1978年、36-39頁
- ↑ 民主社会党 旺文社日本史事典 三訂版の解説