大内兵衛

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大内 兵衛(おおうち ひょうえ、1888年8月29日 - 1980年5月1日)はマルクス経済学者で財政学を専門とした。東京大学名誉教授法政大学名誉教授[1]日本資本主義論争における労農派の代表的理論家。次男はマルクス経済学者の大内力

概要[編集]

兵庫県淡路島出身。1913年東京帝国大学法科大学経済科卒業。大蔵省勤務を経て、1918年に東京帝大講師、1919年に新設された同経済学部の助教授となり財政学を担当した。1919年12月、経済学部助教授の森戸辰男が経済学部紀要『経済学研究』創刊号に論文「クロポトキンの社会思想の研究」を発表する。上杉慎吉教授ら右翼団体興国同志会は同論文を危険思想の宣伝であると攻撃し、1920年1月に筆者の森戸と紀要編集発行名義人の大内は新聞紙法第42条の朝憲紊乱罪で起訴された。森戸は禁錮2ヵ月・罰金70円、大内は禁錮1ヵ月・罰金20円(執行猶予2年)の有罪判決を受け、経済学部教授会は両名の休職を決議した(森戸事件[2]

1921年にドイツへ私費留学し、1922年に特赦で東京帝大に復職、1923年に帰国して同教授となった。1930年に講義テキストとして出版した『財政学大綱』で当時学界の主流を占めていた社会政策学派を批判し、日本で初めてマルクス主義財政学を体系化する。日本資本主義論争では労農派の代表的理論家として活躍する。1938年第二次人民戦線事件で労農派教授グループの一員として検挙され、再び休職となる。敗戦により1945年末に再び復職し、1949年に定年退官するまで東京大学教授として財政学を講じた。門下からは有沢広巳美濃部亮吉など多数の学者を輩出した。退官後は1950年6月16日から1959年4月8日まで法政大学総長を務めた[3]

戦後、社会保障制度審議会会長、統計審議会会長、内閣統計委員会委員長、日本統計学会会長などを務め、日本における社会保障制度や経済統計の整備に尽力した[4][5]。1951年に山川均向坂逸郎らと社会主義協会を創立し、社会党左派の理論的指導者として活躍した。山川とともに協会の代表を務め、1958年の山川死去後は向坂とともに代表を務めた。1967年に協会が実践重視の太田派と理論重視の向坂派に分裂すると、ただちに向坂とともに新しい協会を再建した。1958年に憲法問題研究会の代表世話人、1967年には「明るい革新都政をつくる会」代表委員の一人となり、門下生である美濃部都知事のブレーンを務めた。日本学士院会員、大原社会問題研究所顧問。1980年5月1日に鎌倉で死去、享年91歳。

主な著書に『財政学大綱』(岩波書店、1930年)、『日本財政論 公債篇』(改造社、1932年)、「明治財政・経済史文献解題」(土屋喬雄との共著、『日本資本主義発達史講座 第7』(岩波書店、1933年)所収)、『日本インフレーションの研究』(有澤廣巳、脇村義太郎高橋正雄、美濃部亮吉との共著、黄土社、1946年)、『経済学五十年』上下(東京大学出版会、1959年)、『マルクス・エンゲルス小伝』(岩波新書、1963年)などがある。訳書に岩波文庫エンゲルス空想より科学へ』(1946年)、マルクス・エンゲルス『共産党宣言』(向坂逸郎との共訳、1951年)、アダム・スミス諸国民の富』(松川七郎との共訳、1959-66年)、J・S・ミル女性の解放』(大内節子との共訳、1957年)などがある。著作集に『大内兵衛著作集』全12巻(岩波書店、1974-75年)がある。

脚注[編集]

出典・引用等[編集]

  • 『経済辞典』 金森久雄 荒憲治郎 森口親司、有斐閣、2013年12月20日、5th。