長谷川町子
長谷川 町子(はせがわ まちこ、1920年(大正9年)1月30日 - 1992年(平成4年)5月27日)は、日本の女性漫画家。
プロフィール[編集]
略歴[編集]
1920年(大正9年)に佐賀県で生まれる。父の勇吉は炭鉱会社に勤める機械技術者であった。母は貞子。春吉尋常小学校卒業。町子が13歳のときに父が病死した。翌年、母貞子は娘たちの絵の才能を伸ばすため、一家で上京し、麻布霞町(現在の西麻布)に住まいを構えたが、まもなく世田谷代田に転居する[1]。町子は山脇高等女学校(現在の山脇学園)3 年に編入する。町子が山脇高女の女学生の時、当時の人気漫画家だった田川水泡に弟子入り[2]し、女性初の漫画家として『少女倶楽部』1935年10月号の『狸の面』でデビューする。卒業後の1936年4月から内弟子となり[3]、家事の手伝いをしながら漫画を学んだ。しかし戦争が始まり、妹の洋子が病気で寝込んだことから、1944年3月に一家は福岡へ疎開する[4]。
その頃、地元の新聞社『夕刊フクニチ新聞』から夕刊を復刊するため、1946年4月に4コマ漫画の連載を依頼される。そこで「サザエさん」を考案した。福岡の百道海岸を散歩しながら、新しい連載漫画の登場人物にサザエ、カツオ、ワカメなど海に関係する名前を思いついた[5]。そこには『サザエさん発案の地記念碑』[6]がある。その後、東京の出版社から田川先生と町子に仕事を依頼したいという広告が新聞の尋ね人欄に掲載され(1946年7月頃)[7]、それ見て一家は福岡の家と土地を処分して同年12月に再び上京する。1950年に現在の長谷川町子美術館の近くの桜新町に家を購入した[8]。土地は660坪あったという[9]。
1982年に紫綬褒章受、1992年7月28日に国民栄誉賞を受賞した[10]。国民栄誉賞を受賞した漫画家は長谷川町子のみである。1992年5月27日、冠動脈硬化症による心不全で逝去した。享年72。生涯独身を貫き姉と二人暮しであった。
主な代表作は『サザエさん』、『いじわるばあさん』、『エプロンおばさん』、『いじわる看護婦』など。
絵物語の『サザエさんうちあけ話』はNHK連続テレビ小説の『マー姉ちゃん』になった。
土地の譲渡[編集]
長谷川町子は福岡から再上京したとき文京区千駄木3丁目の団子坂の家に住んでいた。その後、桜新町に土地を購入して転居したが、倉庫として使っていた。講談師の五代目宝井馬琴は最高の方位だからと、長谷川町子にじかに頼み込んで、譲って貰った[11]その後、馬琴はそこに家を新築した。これが総ヒノキ造りの豪邸であったから、「馬琴ガム宮殿」(イギリスのバッキンガム宮殿のもじり)と言われた。
余談[編集]
バス会社の立川バスにサザエさんの絵を勝手に書かれた事で著作権をめぐって裁判で争う事態になった。結果は長谷川町子の勝利となり、バス会社に1824万4099円と遅延損害金の支払いが命じられた[12]。その当時の世相から考えると「やったもん勝ち」な時代の中では、珍しく先駆的な考え方の持ち主だった。
関連項目[編集]
- 参考文献
- ↑ 工藤美代子(2020)『サザエさんと長谷川町子』,p.63
- ↑ 長谷川町子(2016)『サザエさんうちあけ話』朝日新聞出版,p.5-6
- ↑ 『長谷川町子』筑摩書房、p.60
- ↑ 工藤美代子(2020)『サザエさんと長谷川町子』,p.112
- ↑ 長谷川町子(2016)『サザエさんうちあけ話』朝日新聞出版,p.40
- ↑ https://www.city.fukuoka.lg.jp/shicho/koho/fsdweb/2021/0515/sawara1601.html 令和3年5月15日、福岡市政便り令和3年5月15日号
- ↑ 長谷川町子(2016)『サザエさんうちあけ話』朝日新聞出版,p.41
- ↑ 工藤美代子(2020)『サザエさんと長谷川町子』,p.117
- ↑ 工藤美代子(2020)『サザエさんと長谷川町子』,p.254
- ↑ https://www.nishinippon.co.jp/item/n/754848/ 西日本新聞、2023年7月7日
- ↑ 長谷川町子(2016)『サザエさんうちあけ話』朝日新聞出版,p.67
- ↑ <https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/407/014407_hanrei.pdf 東京地方裁判所,昭和46年(ワ)第151号,昭和51年5月26日