日本社会党

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日本社会党(にっぽんしゃかいとう、にほんしゃかいとう)は、日本の政党[1]。略称は社会党。1996年1月に社会民主党(略称:社民党)に改称した。

新左翼との関係[編集]

利用主義[編集]

社会党は共産党民青に対抗するため、または自派に取り込むために新左翼勢力と共同で大衆運動を行った。新左翼勢力も社会党を「既成左翼」「改良主義」「修正主義」「日和見主義」などとして厳しく批判しつつ、自らの影響力を広めるために社会党系の大衆運動に参加した(反戦青年委員会など)。社会主義協会機関誌『社会主義』1966年2月号は、反戦青年委員会について、「三派系『全学連』は社会党の『利用主義』を『利用』しながら、自らの闘争の舞台の設定をおこなっている」と指摘した[2]。社会党・社青同から分派して結成された党派も存在する。日本社会主義青年同盟(社青同)内部の解放派は、1965年に「社青同・社会党を貫く全国的な分派」として正式に社青同解放派を結成し、1969年にその政治組織として革命的労働者協会を結成した。日本革命的共産主義者同盟(第四インターナショナル日本支部)は60年代を通して社会党・社青同への加入戦術を行い組織を拡大した。

同盟軍規定[編集]

共産党は社会党に対し、「中核革マル」などの「暴力集団」を「同盟軍」と位置づけたなどと批判している[3]。社会党が「暴力集団」=新左翼勢力を同盟軍と位置付けたとされるのは、1968年1月の社会党大会における井岡大治国民運動局長(当時)の発言である。1967年10月7日、佐藤栄作首相のベトナム訪問を阻止しようとした「三派全学連」「革マル全学連」の学生約2000人が、羽田空港周辺で機動隊と衝突した(第一次羽田闘争、第一次羽田事件)。事件後に井岡運動局長は「責任はすべてアメリカのベトナム戦争協力を深めつつある佐藤内閣が負うべきものである」とする中執声明を発表した[4]。そして1968年1月の社会党大会で「あの行動、戦術にはかならずしも賛成できないが、われわれはかれらを同盟軍、予備軍と考えるべきであり、トロツキストと規定し敵視すべきではない」「かれらは排除すべきではなく、われわれが包んでたたかうべきだ」と発言した[5]。この大会で山本幸一書記長は、井岡運動局長が発表した中執声明は中央執行委員会が全員一致で正しいと確認していると述べ、また当時佐世保で闘われていたエンタープライズ寄港阻止闘争で三派系学生を反革命分子と呼んだ共産党・民青に対し強く反省を求めた。ただし成田知巳社会主義理論委員会事務局長は、佐世保の三派系学生の思想を「これは非常に非現実的で社会党の路線と相いれない。その立場は『反革命的、反動的』だ」と否定する発言を行った[6]

脚注[編集]

  1. 正しい読み方は「にっぽんしゃかいとう」(『大辞林』)。
  2. 河邑重光『実録 「新左翼」は三度死ぬ――その軌跡と役割』新日本出版社、1987年、88頁
  3. 中核・革マルは共産党の分派なの?しんぶん赤旗』2006年6月14日
  4. 河邑重光『実録 「新左翼」は三度死ぬ――その軌跡と役割』新日本出版社、1987年、66頁
  5. 河邑重光『実録 「新左翼」は三度死ぬ――その軌跡と役割』新日本出版社、1987年、84頁
  6. 河邑重光『実録 「新左翼」は三度死ぬ――その軌跡と役割』新日本出版社、1987年、84-85頁

外部リンク[編集]