日本社会党

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日本社会党(にっぽんしゃかいとう、にほんしゃかいとう[1])は、1945年11月に結成された社会民主主義政党。略称は社会党。1996年1月に社会民主党(略称:社民党)に改称した。

歴代委員長[編集]

1.片山哲(1946年9月~1950年1月)
2.鈴木茂三郎(1951年1月~10月、1955年10月~1960年3月)※左派社会党委員長:鈴木茂三郎(1951年1月~1955年10月)、右派社会党委員長:河上丈太郎(1953年1月~1955年10月)
3.浅沼稲次郎(1960年3月~1960年10月)※委員長代行:江田三郎(1960年10月~1961年3月)
4.河上丈太郎(1961年3月~1965年5月)
5.佐々木更三(1965年5月~1967年8月)
6.勝間田清一(1967年8月~1968年10月)
7.成田知巳(1968年11月~1977年9月)
8.飛鳥田一雄(1977年12月~1983年9月)
9.石橋政嗣(1983年9月~1986年9月)
10.土井たか子(1986年9月~1991年7月)
11.田邊誠(1991年7月~1993年1月)
12.山花貞夫(1993年1月~1993年9月)
13.村山富市(1993年9月~1996年1月)

新左翼との関係[編集]

利用主義[編集]

社会党は共産党民青に対抗するため、または自派に取り込むために新左翼勢力と共同で大衆運動を行った。新左翼勢力も社会党を「既成左翼」「改良主義」「修正主義」「日和見主義」などとして厳しく批判しつつ、自らの影響力を広めるために社会党系の大衆運動に参加した。社会主義協会機関誌『社会主義』1966年2月号は、反戦青年委員会について、「三派系『全学連』は社会党の『利用主義』を『利用』しながら、自らの闘争の舞台の設定をおこなっている」と指摘した[2]社青同解放派人民の力派など社会党・社青同から分派して結成された党派も存在する。日本革命的共産主義者同盟(第四インターナショナル日本支部)は60年代に社会党・社青同への加入戦術を行い組織を拡大した。

同盟軍規定[編集]

共産党は社会党に対し、「中核革マル」などの「暴力集団」を「同盟軍」と位置づけたなどと批判している[3]。社会党が「暴力集団」=新左翼勢力を同盟軍と位置付けたとされるのは、1968年1月の社会党大会における井岡大治国民運動局長(当時)の発言である。1967年10月7日、佐藤栄作首相のベトナム訪問を阻止しようとした「三派全学連」「革マル全学連」の学生約2000人が羽田空港周辺で機動隊と衝突した(第一次羽田事件)。事件後に井岡運動局長は「責任はすべてアメリカのベトナム戦争協力を深めつつある佐藤内閣が負うべきものである」とする中執声明を発表した[4]。そして1968年1月の社会党大会で「あの行動、戦術にはかならずしも賛成できないが、われわれはかれらを同盟軍、予備軍と考えるべきであり、トロツキストと規定し敵視すべきではない」「かれらは排除すべきではなく、われわれが包んでたたかうべきだ」と発言した[5]。また山本幸一書記長は、井岡運動局長が発表した中執声明は中央執行委員会が全員一致で正しいと確認していると述べ、また当時佐世保で闘われていたエンタープライズ寄港阻止闘争で三派系学生を反革命分子と呼んだ共産党・民青に対し強く反省を求めた。ただし成田知巳社会主義理論委員会事務局長は、佐世保の三派系学生の思想を「これは非常に非現実的で社会党の路線と相いれない。その立場は『反革命的、反動的』だ」と否定する発言を行った[6]

脚注[編集]

  1. 正しい読み方は「にっぽんしゃかいとう」(『大辞林』)。
  2. 河邑重光『実録 「新左翼」は三度死ぬ――その軌跡と役割』新日本出版社、1987年、88頁
  3. 中核・革マルは共産党の分派なの?しんぶん赤旗』2006年6月14日
  4. 河邑重光『実録 「新左翼」は三度死ぬ――その軌跡と役割』新日本出版社、1987年、66頁
  5. 河邑重光『実録 「新左翼」は三度死ぬ――その軌跡と役割』新日本出版社、1987年、84頁
  6. 河邑重光『実録 「新左翼」は三度死ぬ――その軌跡と役割』新日本出版社、1987年、84-85頁

外部リンク[編集]

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