民主社会主義連盟
民主社会主義連盟(みんしゅしゃかいしゅぎれんめい)は、民主社会主義の思想団体。略称は民社連(みんしゃれん)。民主社会主義研究会議(現・政策研究フォーラム)の前身団体[1]。右派社会党の理論的支柱として創立され[2]、民社党の思想・理論・政策を準備した[3]。
概要[編集]
前身は1950年10月に日本社会党の松前重義、八木秀次、竹本孫一、保守党の千葉三郎、堀木鎌三らが科学的・合理的な民主政治の研究・普及を趣旨に設立した「科学と政治の会」。会長は八木秀次、理事長は松前重義、顧問は三輪寿壮。同会は民主社会主義の思想団体ではなく、保革の枠を超えた人々が結集したサロン的な研究と懇談のクラブという性格の団体だったとみられる。1951年12月12日に同会が発展的に解消して民社研が創立された[4]。
1951年10月に社会党はサンフランシスコ講和条約と日米安保条約への賛否を巡り左派と右派に分裂した。10月17日に松岡駒吉、三輪寿壮、河野密、波多野鼎、赤松常子、田原春次、八木秀次、蠟山政道、矢部貞治、佐野学、鍋山貞親、三田村四郎、竪山利忠が集まって民主社会主義連盟の創立について話がもたれ、12月12日に発会式が開催された。八木、蠟山らは新党の結成を志向したが、衆議院議員の松岡は党内事情を心配し、結局「文化研究団体」という方向でやってみることになったという[5]。なお右派の西尾系ではなく、中間派の日労系と見なされた[6]。世話人は八木秀次、蠟山政道、波多野鼎で、結成時に八木が会長、蠟山が理事長、波多野が事務局長となった[5]。創立趣意書にはイギリス労働党を念頭に置いた民主社会主義を掲げた[2]。創立趣意書における民主社会主義の目指すべき方向で特徴的な点は、「社会主義を志向する公共統制と計画経済の樹立」と、国際連帯主義に立ちながら「アジアの後進性を打開し、その自主自立の境地を開拓すること」だが、いずれも戦時下の統制経済論や東亜共同体論を想起させるものであった[5]。
1952年2月頃から本格的に事業を開始し、青年講習会や地方を回っての「民主政治学校」などを開催した[5]。1953年1月に機関誌として『民主社会主義』を創刊した[3]。メンバーには関嘉彦、武藤光朗、野田福雄、河上民雄などが新たに加わった。事務局長の波多野は1953年の参院選で落選してから連盟の活動に消極的になり、蠟山はそれがきっかけで理事長を辞め、中村菊男が理事長、麻生良方が事務局長となった[7]。この頃には関嘉彦、武藤光朗、和田耕作、竪山利忠、河上民雄などが中心メンバーになっていた[8]。1955年の社会党左右両派統一に際し、右派社会党の要請を受けて「統一社会党綱領草案」(右社綱領草案)を作成した[9]。社会党統一後も左派の社会主義協会に対抗して右派の理論的支柱の役割を果たした[8]。
1959年9月12日に開催された社会党第16回大会で西尾末廣の処分が可決されたことを契機として、9月16日に社会党西尾派、全労系代議員により「日本社会党再建同志会」が結成され、1960年1月24日に河上派の一部も加わって民主社会党(のちの民社党)が結成された。この状態と関連して、蠟山政道が1959年10月26日に開催された民社連思想委員会で民社連の発展的解消、民主社会主義の思想と政策の研究のための新機関設立の構想を説明した。蠟山構想は承認され、11月7日の第2回思想委員会で1月に第1回民主社会主義研究会議を開催すること、思想委員会委員長としての蠟山の名前で会議の招集を呼びかけることが決定された。1960年1月9日と10日に第1回民主社会主義研究会議が開催され、猪木正道、森戸辰男らが参加した。2月13日に民社連が発展的解消し、民主社会主義研究会議(民社研)が設立された。民社研には社会思想研究会(社思研)が団体会員として、電力会社、鉄鋼会社をはじめとする主要企業、同盟の前身にあたる全労系の労組が賛助会員としてそれぞれ加入した。
役員[編集]
歴代会長・理事長・事務局長[編集]
歴代会長:八木秀次(1951年12月~1956年2月)、三輪寿壮(1956年2月~同年11月死去)
歴代理事長:蠟山政道(1951年12月~1953年12月)、中村菊男(1953年12月~)
歴代事務局長:波多野鼎(1951年12月~1953年12月)、麻生良方(1953年12月~)
結成時の役員[編集]
会長:八木秀次、理事長:蠟山政道、事務局長:波多野鼎
理事:阿部義宗、石川達三、岩田豊雄、大野信三、加田哲二、加藤勘十、桂皋、木村毅、桐原葆見、高坂正顯、河野密、佐野学、友岡久雄、直井武夫、中村菊男、波多野鼎、松岡駒吉、松前重義、三輪寿壮、美濃口時次郎、矢部貞治、蠟山政道
評議員:赤松常子、東隆、天池清次、江木武彦、小崎道雄、大西正道、賀川豊彦、加藤閲男、金杉秀信、菊川忠雄、能本虎三、小島利雄、斎藤勇、重枝琢巳、杉森孝次郎、田端金光、田原春次、滝田実、竪山利忠、鍋山貞親、原島照房、古沢磯次郎、堀木鎌三、松本七郎、三田村四郎、三宅正一、水谷長三郎、森田清一郎、基政七、山名義鶴、横手行雄[10]
1953年12月の第3回定期総会で決定した役員[編集]
顧問:蠟山政道、波多野鼎、松岡駒吉、森戸辰男、高坂正顕
会長:八木秀次、理事長:中村菊男、事務局長:麻生良方
常任理事:平貞蔵、小島利雄、江木武彦、橋本八男、河上民雄、千葉堅弥、重枝琢巳、綿引伊好、東隆、金沢辰夫、和田春生、丸山隆一、中込友美、平岡忠次郎、加藤信一、竪山利忠、田中利勝、麻生良方[11]
1956年2月の第5回定期総会で決定した役員[編集]
顧問:蠟山政道、波多野鼎、高坂正顕、八木秀次、松岡駒吉、森戸辰男
会長:三輪寿壮、理事長:中村菊男
理事:井上縫三郎、今澄男、迫間真治郎、時子山常三郎、戸村武、土井章、沼田政次、和田春生、和田耕作、綿引伊好、加田哲二、加藤信一、河上民雄、金沢辰夫、米山雄治、竪山利忠、平貞蔵、園田実、土屋清、永末英一、直井武夫、中込友美、武藤光朗、野田福雄、山崎宗太郎、松前重義、古沢磯次郎、藤牧新平、小島利雄、小平忠、江木武彦、我妻東策、阿部静枝、東隆、麻生良方、天田勝正、斎藤勇、木村毅、重枝琢巳、森洋一、関嘉彦、鈴木義男、鈴木一
評議員(4月の理事会で決定):井伊玄太郎、稲葉秀三、林虎男、友岡久雄、土居明夫、大久保満彦、大島豊、奥沢篤次郎、栗田久雄、和田敏雄、川端文夫、金子仁三郎、吉川末次郎、吉村正、吉沢文男、田端太郎、田山東虎、竹石唯七、滝田実、中正雄、村山節、野間海造、山崎広、安井二郎、小牧正道、小松清、青野季吉、北沢新次郎、篠原登、島清、新明正道、気賀健三、国会議員[12]
1956年時点の役員[編集]
会長:欠員、代表顧問:蠟山政道、理事長:中村菊男、事務局長:麻生良方
代表理事:関嘉彦、和田耕作など18名
代表評議員:青野季吉、我妻東策、稲葉秀三、北沢新次郎、気賀健三、新明正道、篠原登、吉村広、和田敏雄、土屋清、加田哲二、井上縫三郎など[13]
出典[編集]
- ↑ 民主社会主義研究会議(民社研)[文]1960.1.9 大原社研_大原クロニカ『社会・労働運動大年表』解説編
- ↑ a b 長谷川隼人「岸信介の経済再建構想と日本再建連盟(2・完)」『一橋法学』15巻1号、2016年3月
- ↑ a b IV 定期刊行物 2.戦後の機関紙誌 法政大学大原社会問題研究所、2014年12月22日
- ↑ 高木邦雄「日本における民主社会主義の思想運動―民社連から民社研へ―」『改革者』第19巻第5号(通巻221号)、1978年8月
- ↑ a b c d 福家崇洋「一国社会主義から民主社会主義へ : 佐野学・鍋山貞親の戦時と戦後」『文明構造論』Vol.9、2013年10月
- ↑ 民主社会主義連盟[政]1951.12.12 大原社研_大原クロニカ『社会・労働運動大年表』解説編
- ↑ 中村菊男「蝋山先生と民主社会主義運動」『改革者』第68号、1965年11月
- ↑ a b 麻生良方『明日をひらく』根っこ文庫太陽社、1966年
- ↑ 高木邦雄「日本における民主社会主義の思想運動―民社連から民社研へ― Ⅳ左・右社会党の統一と民社連」『改革者』第19巻第8号(通巻224号)、1978年11月
- ↑ 日本労働年鑑 第25集 1953年版(PDF)法政大学大原社会問題研究所
- ↑ 中村勝範「中村菊男・人と思想(十一)」『改革者』第19巻第10号(通巻226号)、1979年1月
- ↑ 中村勝範「中村菊男・人と思想(十五)」『改革者』第20巻第4号(通巻232号)、1979年7月
- ↑ 梁田浩祺『日本社会党』朋文社、1956年11月